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ジャロン・ラニアー『万物創生をはじめよう 私的VR事始』谷垣暁美訳、みすず書房、2020

ここしばらく更新が滞っていましたが、次の単著に向け読むだけは大量に読んでいました。原稿を書きつつ雑事に追われつつなので間隔は遅くなるかと思いますが、またゆっくりとでも素晴らしい本の紹介をしていこうと思います。

今回はVRの始祖のひとりであるジャロン・ラニアーによる『万物創生をはじめよう』。タイトルから想像されるような、技術によって人間は神になり代わるのじゃ……的なお話ではなく、強い人間愛に貫かれたラニアーによる半自伝的な素晴らしいVR思想史です。これはほんとうに面白いので、特に近年のVRやメタバースなどの話題に関心のあるひとにお勧めです。物語としても技術史としても哲学書としても楽しく読めますし、興味さえあれば特に前提とされる知識も必要ないと思います(より詳しく知りたいという人向けの補遺もあり)。知っているとよりいっそう面白いことはたくさん書かれていて、何しろラニアーが出会うことになる人びとときたらそれだけでこの時代のある側面の歴史を描けそうなほど名の知られた人びとがたくさん登場します。けれども同時に、よほどマニアでなければ知らないような、VR創生にかかわった人びとも生き生きと描かれているのも本書の大きな魅力です。

私自身の研究上の立場からすると、VRは批判の対象で、専門的な分野での限定された利用(例えば遠隔手術とか)以外には様ざまな問題や限界があると考えています。ですので本書を手に取ったときも「まあVRね……」くらいに思っていたのですが、読んでみるとVRの持つ楽しさや希望、と同時に危険性までもが極めて深く、かつ分かりやすく書かれていて、楽しく読みつつも大きなヒントをたくさん得られました。ラニアーの経験と知識が生きているというだけではなく、VRに対する愛情もまた全開の文体が本書を非常に魅力的にしています。

本書で語られるラニアーのVR観は独特で、「この私」が身体を通して主観的に経験することを重視しています。

メカニズムはモジュールから成っている。自動車の部品をひとつひとつ、ヘリコプターの部品と取り換えたとしたら、最終的に得られるのは、ヘリコプターか、寄せ集めの役立たずの物体である。自動車ではない。/VRにおいても、経験のすべての要素をひとつひとつ取り去ることになる。実際にいる部屋を取り去り、その代わりにシアトルをもってくる。自分の体を取り去り、巨人の体をもってくる。しかしすべての要素がなくなっても、自分は相変わらずそこにいて、残っているものを経験している。つまり、私たちは自動車やヘリコプターとは違うものなのだ。/経験する自分の芯は、体が変化し、世界のほかの部分がすべて変化しても残っている。VRは果物の皮をむくように、現象をはぎとっていき、意識が残ること、そしてそれが本物であることを明らかにする。VRはあなたをあなた自身にさらけだすテクノロジーなのだ。

p.74

これは単にデカルト流のコギトについて語っているのではありません。例えばSNSなどを含んだライフログからAIによって死後も誰かの人格を再生する(そういった幻想を抱かせる)テクノロジーとは、VRはまったく異なるものだということが主張されています。

ある人のフェイスブックページはその人の死後も存続する。しかし、VR体験はそうではない。あなたのVR体験はあなたのためのものであり、ほかの誰かのためのものではない。

p.75

これは、VRのなかでは自分だけが特権化され神のように振る舞えるということではありません。その経験は現実的には人間と無関係に動作するAIにより外部からコントロールされるものとしての私の経験でしかありません。そうではなく、互いが物理的世界に根差した存在としての私同士であることをより深く理解していく過程とともにあるテクノロジーとしてラニアーはVRを考えています。だからこそ、彼の少年期からやがてVRの立役者として祭り上げられ、それに疲れて距離を取り、やがて現在に至るラニアーの自伝がとても面白く、またVRと切り離しては語れないものだということが説得力をもって実感できます。

特に幼少時代のお話は、何故かとても印象に残ります。例えばメキシコのシウダーフアレスにある小学校へ通っていた少年時代の彼が、ボッシュの『快楽の園』を初めて目にしたときのこと。

ボスの描いた人物の中に、少数だがカンバスからこちらを見ている者がいる。もし自分がそのうちのひとりだったら、どんな感じだろうと私は思った。そのカンバス、つまりその窓から外を見るとき、私は絵の中から、ごく普通のもののはずの私たちの世界を見ているのだった。[…]私は時折[小学校の窓の外に裸の子どもが砂場に飛び降り、つかまえられるまで跳ね回るのを目にした。まるで絵の中の光景のようだった。だが、それだけではなかった。校庭の黄色い芝生の向こうには、カオスそのものの埃っぽい街路が見えていた。[…]
(ぼくの見ているのは奇跡だ)

pp.12-13

これはラニアーにとってVRとは何かという、その根源的な洞察を決定づける体験です。

あるいはこれはもう少し成長してから、とある大学へ彼が通っていたときのこと。パンチカード(大昔、人びとがコードをパンチ穴で紙のカードに記していたもの。私も保存されていたそれを見たことしかありません)を数少ないコンピュータで処理してもらうために並んでいたとき、後ろにいた男がたまたまそこにあったピンチョンの『重力の虹』をみて「むかつく野郎だ」とつぶやきます。

「えっ、何?」と私はなんとか言った。/「ピンチョンさ。やつは自分の姿を見せない。情報の非対称性だな。やつにはおれたちが見えるのに、おれたちにはやつが見えない。やつは権力を誇示しているんだ」ピンチョンのようなすばらしい作家について、どうしてそんなひどいことが言えるんだろう、と私は思った。/「作家に権力なんかないでしょ」と私は言った。「きっと煩わされたくないだけだと思うよ。ミサイルをもってるわけじゃなし」/「おまえ、ほんとうにわからないのか。驚いたな」/私は最後の抵抗を試みた。「作家が姿を見られたくないと思ったって、なんの害もないよね。ちょっとしたカーテンみたいなもの、昔の彫刻についているイチジクの葉っぱみたいなもんだよ。ほんとうに重大なことがぼくらの目から隔されているというのとは違うよ」/「イチジクの葉は究極的な情報兵器だ。お前、ほんとうに何にもわかっちゃいねえな、キッド」/そのとき、私の順番がようやく回ってきた。「じゃ、どうも。知りあいになれてよかった。名前は?」/「教えてやらねえよ、キッド」

pp.49-50

後にラニアーはインターネットの創世記にも立ち会うことになるのですが、そこでまさにこの問題に直面し、そこで彼(そして彼と同じ意見を持っていた人びと)は敗れ、この情報の非対称性がインターネットにもたらされることになります。基本的な指向性としてインターネットがそのようになってしまったことをラニアーは強く反省し、批判します。

私たちは理解可能なネットではなく、もやのかかった不可知なネットを選んだ。/双方向のリンクをもたないため、何が何を指しているのか、包括的に知るすべはなかった。こうして、完全に人工的なものが、足跡ひとつ見当たらないという性質を帯びた。まるで荒野であるかのように。未開の西部の再来! ただし、まったく人為的にそうなったのだ。[…]ずっとあとになって、最初からマッピングしておくべきであったものを部分的にマッピングするサービスと引き換えに、グーグルやフェイスブックは何千億ドルも儲けた。

p.354

それは経済的な格差をもたらすだけではなく、私たちのモラルを低下させるだけではなく、さらにはそれがフィルターバブルへとつながるからでもなく、無論そのどれもが途轍もない問題なのですが、それ以上にラニアーにとっては、VRがかつて持っていたはずの輝かしい可能性の対極にあるものだからこそ、彼は批判し、後悔しているのです。

とはいえ、本書は基本的に明るいトーンに彩られています。ラニアーの人間に対する、技術を使う人間に対する信頼が根本にあるからでしょう。そしてとても書ききれないほど興味深い彼の人生にまつわるエピソードが数限りなく語られます。子どものころテルミンで遊んだこと、やがて大人になりVRの企業を立ち上げ、そのデモに(発明者の)老いたテルミンがやってきたときのこと。あるいは父親と一緒に(母親は早くして亡くなります)ジオデシックドームを建ててそこで暮らしたこと、多くの技術者たち、協力者たちとの出会い。

技術は、当然のことですが、放っておいたらにょきにょきどこかに生えてくるようなものではありません。そこに無数の人間の希望や願いや欲望や悪意や政治や偶然が折り重なって初めてこの世界に現れるものです。どのようにという問いは技術の本質ではなく、なぜ、こそが本質なのだと私は思います。そういった意味でも本書、心の底からお勧めできます。最初に書いた通り、VRやらメタバースやら、あるいはAIやら、実際のところそれはぼくら人間にとってどうなんだろうと感じているのなら、ぜひ。

『現代思想』2022年9月号のメタバース特集に寄稿しました。コントロール不可能性や不自由さ、どうしようもなさをメタバースに取り込んでいくことによってこそ、メタバース(という名称はどうでも良いのですが)はほんとうの宇宙になる可能性を持つんだ、みたいなことを書いています。実際そこで既に遊んでいる人たちには受けが悪い内容かもしれませんが、ぼくらが生きていることの実感ってどこから来るのかなということを考える上では欠かせない議論だと思っています。よろしければぜひご覧ください。保苅実の歴史のメンテナンス(保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』岩波現代文庫、2018)の議論とか、修理する権利(ここではAaron Perzanowski, "The Right to Repair: Reclaiming the Things We Own", Cambridge University Press, 2022を参照)とかも重要な概念として扱っています。


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