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並行世界

書いては消して、書いては消して、世に出すかずっと悩んでいたけど(冒頭でもそんな話をしている)、人の文章を見て気づいたこともあったので、このテーマの文章を初めて出してみようと思う。


前提として、わたしは東北に住んでいたけど被災者ではないと思っている。2〜3日の停電程度で、高校の合格発表が延期になったぐらいで、家も無事だし家族も友達もみんな変わらず近くにいるから。

北海道に来てからは胆振東部地震も経験したけど、それも同様に。未来に残るべきものがなくなってしまったとしたら、それを被災と呼ぶと思う。

ただ線引きは人によって違うので、いろんな解釈や思いがあることもわかる。

3月11日が近づくと、体験談がインターネット上に溢れる。被災した方からすると、思い出したくない、放っておいてくれと思う人もいるはずだ。腹が立ったり悲しくなったりするかもしれない。

だけど、震災から10年以上経ちあの日を経験していない人がどんどん増える中で、記憶が薄れないうちに残しておいた方がよいと思った。

うちのおばあちゃんは戦争経験者だけど、空襲を受けたことも爆撃を受けたこともない。

だけど、防空壕を掘ったその日に終戦のサイレンが鳴ったことは、おばあちゃんしか経験してない。

だから、わたしもわたしだけの経験をインターネットの片隅に残しておこうと思う。もしも10年後、20年後の若者が、これを見つけて読んでくれたら嬉しい。


2011年3月9日の昼頃、大きな地震があった。わたしたちは中学校3年生の卒業間際で、その日は山形県の県立高校入試の日だった。

わたしが住んでいた秋田県にかほ市は、日本海と山形県に隣接する小さなまち。

県立高校は基本的に県内在住の人しか受験できない。にかほ市内の中学生は特例として、最寄りの1校だけ山形県立の高校を受験する資格があった。

ちょうど仲の良い友達が山形県の高校を受験しに行っていた日だったから、大丈夫かなと思った記憶がある。

わたしたちの学年は体育館で歌の練習をしていてしばらく立ったままだったから、めまいかなと思った(あとで聞くと、みんなそう思っていたらしい)。

ちょうど4時間目が終わる間際だったから、そのまま練習は終わって教室に帰った。

そのときの地震もかなり大きかったから、あれが余震だなんて思わなかった。怖かったね、受験中の友達大丈夫かな、そんな話をしながら1日を終えたと思う。

3月11日は、卒業式当日だった。

午前中だけの式で、何事もなく式次第を進行して。3月にしては珍しい吹雪のなかで写真を撮り、またね、ばいばいと言って多くの人やものにお別れをした。

良い日だと思っていた。

お昼ごろ家に着いてごはんを食べて、買ってもらったばかりの携帯電話で友達とメールのやりとりをしていた。

お姉ちゃんは隣の市にある高校に通っていて、お父さんは仕事中だったから、家にはお母さんとわたしと猫。

14時46分を差した時計の針は、盤面の中央に寝そべってシエスタ中だった。間延びした、のんびりした時間だったはずなのに。

最初は小さな揺れだった。だんだん揺れが大きくなってきて、開いていたリビングのドアが大きな音を立てる。吊るしてある観葉植物は見たことがないほど揺れていた。

揺れが収まったあと、友達に連絡しようと思ってパソコンを見る。もともと電源がついていたパソコンはボタンを押しても動かず、そこで初めて停電していたことに気づいた。

もちろんテレビもつかず、何が起きているのかまったく分からない。唯一つけたラジオは、震源が岩手・宮城付近の太平洋側ということだけを教えてくれた。

わたしの家は日本海のすぐそばにあって、歩いて3分もすれば海岸に着く。日常的に避難看板を目にしていたが、情報を聞くまでも聞いてからも津波の心配はまったくしていなかった。

災害が起きて、避難をする想像をしたことがなかった。きっと、太平洋側の地域に住んでいた人も同じだったんじゃないかと思う。

わたしたちと同じように卒業式を終え、自宅で余韻を噛み締めていた同じ歳の子たちもきっといたんじゃないだろうか。

楽しかった中学校生活を思い出しながら、高校生活に期待を膨らませていた子もいたんだろうな。これからの人生で、出会えた可能性があったかもしれない。

それから2、3日ほど停電は続いた。煮炊き用コンロで寒さを凌いで、夜はロウソクで明かりをつけた。いつまで続くのかという不安の中でも早めに眠るしかなくて、真っ暗闇の部屋で、みんなどう過ごしてるんだろうと考えた。

情報はラジオのみで、当然映像は見られない。言葉と数字で耳にした被害の状況は、まるで現実味がなくてよくわからなかった。

そのときは自分たちの生活に精一杯で、どれだけ大変なことが起きているかを改めて目の当たりにしたのは停電が明けた後だった。

停電が明けた後には、もう衝撃的な津波の映像は地上波で流れていなかった。津波の映像を見たのはその何年もあとの話になる。

4月になり、高校1年生になった。世の中の雰囲気は暗いけど、自分の生活は震災によって変わらなかった。

だけど震災前の世界にはどうあがいても戻れなくて、似たような並行世界に来てしまった感覚だ。今でも。

東日本大震災は、わたしたちの住む世界の形を大きく変えてしまった。大切なものの大切さを、最も暴力的な方法で思い知らされる出来事。

知らない人がいない大きな出来事だから、全員にいろんな思いがあると思う。もう過去のことだ、と思う人もいるのだろうか。

戦争を経験した人はテレビで「風化させないでほしい」とよく話す。事件の遺族は被害者のことを「忘れないでほしい」と言う。

忘れないことしかできることがないなら、絶対に死ぬまで覚えておこう。おばあちゃんみたいに、孫ができたら話そう。

震災のない世界線にいられなかったわたしたちは、この並行世界でできることをやるしかない。

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