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ぼくが鹿島アントラーズにハマるまで

最近、嬉しいことにサッカーファンの方々と交流する機会が増えてきた。その時によく聞かれる質問が一つある。それは、「どうして鹿島を好きに?」というものだ。

ただ、実はこれに対する答えは未だに自分の中で見つかっていない。自分は東京生まれ東京育ちで、鹿嶋は地元でもなんでもない。特に明確なきっかけがある訳でもない。だから、この質問が来た時になんて返せばいいのか、迷ってしまう自分がいるのだ。結局、「親の地元が茨城なので…(ガチ)」という当たりさわりのない答えに終わってしまい、自分の中でなんとももやもやした感じになってしまうのである。

そこで、改めてこの機会に自分が鹿島アントラーズにハマっていくまでを振り返ってみたいと思う。これをすることで、自分が今度聞かれた時の答えを見つけられるとは限らないが、質問をする方にこれを見てくださいと投げることは出来るはずだ←

出会い

ぼくが初めて鹿島アントラーズと出会ったのは、2000年のことだ。この年の開幕戦、国立競技場で行われた試合をぼくは親に連れていかれて観ていた。ただ、「観に行った」という記憶はあるが、それ以外の記憶は何一つない。その試合はアントラーズが勝ったらしいが、それも十数年後にデータサイトで知ったくらいだ。

記憶がないのはぼくが幼かったというのもあるが、当時のぼくにとってあまりいい思い出ではなかったという部分が大きいだろう。幼い頃のぼくは何故かわからないが、人混みが大嫌いだった。そんなぼくが連れていかれたのは、3万人の国立競技場。サッカーなんてものはもちろん知らないぼくは、「行きたくない」と駄々をこねにこねて、泣きわめいた。この記憶は強烈に残っている。ただ、それでも引きずられて試合を観たのだけれども。これがぼくとアントラーズの出会いである。

出会いはぼくにいいものではなかったが、結局のところ大きいものになった。これ以降しばらくぼくの中のサッカーチームは「アントラーズ」と「それ以外」になったのだから。

サッカーにハマる

出会いから2年。2001年チャンピオンシップの小笠原満男のVゴールは何故か覚えているが、アントラーズの試合はあの出会いの日から一度も見ていない。ただ、ぼくは友だちの誘いでサッカーチームに入り、初めてゴールを決めて、徐々に面白さに目覚めていった。そんな頃に、大きな出来事が起こる。日韓ワールドカップだ。

日本中がサッカーブームとなり、学校での話題もサッカー一色だったあの時、ぼくも例に漏れずそのブームに乗っかっていった。ベルギー戦の鈴木隆行のゴールに大騒ぎしたし、ロシア戦は国立競技場でのパブリックビューイングで見ていた。チュニジア戦は習い事をサボって、テレビの前にかぶりついていた。

これだけでもサッカーにハマるには十分すぎたのだが、ぼくは幸運なことに親の知り合いがチケットを譲ってくれたため、新潟でイングランド-デンマークを観る機会に恵まれた。当時はイングランドのデビッド・ベッカムが大人気。ぼくもそうだったが、モヒカンスタイルのベッカムヘアをみんなこぞって真似していたものだった。そんな中で初めて現地で観たワールドカップは強烈な思い出だった。ベッカムがコーナーキックを蹴るたびに、スタジアムの四方八方から焚かれるフラッシュ、ゴールが決まった時の地鳴りのような歓声、帰りのシャトルバスであちこちから聞こえる外国語。ぼくにとっては、全てが未知であり、新鮮な体験だった。日韓ワールドカップが終わる頃には、ぼくは「サッカー選手になりたい」「ワールドカップで活躍したい」という夢を持つようになっていた。

アントラーズにハマる

こうしたぼくの姿を見ていた親は、機会があれば再びアントラーズの試合に連れてってくれるようになっていった。その時にはもう、ぼくの中で「サッカーを観に行く=楽しいイベント」という式が出来上がりつつあった。

同時にアントラーズのこともだんだん好きになっていった。ちょうどこの頃、アントラーズが第二次黄金期で強かったというのもあるだろう。最初に好きになったのは柳沢敦だ。理由は点を取るFWというのと、チャントの「やなーぎさーわー」というメロディが好きだったからだ。日韓ワールドカップの時に日本代表のユニフォームを買ってもらう時も、ぼくは「柳沢がいい!」と言っていた。結局、柳沢のユニは売り切れで、買ってもらったのは小野伸二のだったのだけれど。

柳沢のユニが買ってもらえず、その後柳沢が海外移籍してしまったところで、ぼくの次の推しは小笠原満男に移っていった。あの頃、ピッチの中心にいて一番注目を浴び、かつ一番ゴールも奪っていた小笠原にぼくは虜になった。その時彼が着けていた8番をぼくも真似したくて、サッカーチームのビブスも真っ先に8番を探していたし、試合で10番を着けさせてもらうこともあったのだが、その時も「8番がいい」とわがままを監督に言いたかったくらいだ。

そうしてサッカーへもアントラーズへも好きが増していった自分に、親がある雑誌を買ってくれた。それがサッカーダイジェストの補強診断特集の号だった。ぼくは読んで、こんなサッカーのことが書いてある本があるんだ!と衝撃を受けた。各チームの選手の写真は、どこにどの選手がいて、自分が好きなアントラーズはどれくらい強いのか。その情報の全てを自分の中に入れたくて、読めない漢字は調べてでも読んでいた。その後に選手名鑑も買ってもらい、これはほぼ毎日のように読んでいた。こうしてぼくの愛読書はコロコロコミックから、サッカーダイジェストへと変わっていったのだった。ぼくが今のようになったのはこの出会いが大きかったと、今になって思う。

これ以降、サッカーが生活の中で大きな割合を占めるようになっていた。火曜日に本屋にサッカーダイジェストを買いに行き、週末はサッカークラブの練習が終わったら急いで帰り、テレビでJリーグのナイトゲームを見るようになっていった。

初めてカシマスタジアムに行ったのもこの頃だった。2004年の2ndステージ開幕戦。夏休みで祖父母の家に行くついでに、お願いして連れてってもらった。ユニフォームがどうしても欲しかったぼくは親にねだるのと同時に、ぼくにおこづかいをよくくれていた祖母にもねだるという小狡い手を使って、この時初めてアントラーズのユニフォームも買ってもらった。サイズ的にもう着ることは出来ないけど、今でも家にとってある。初めてのユニはもちろん、その時大好きだった小笠原のユニだ。

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今に至る

ぼくがアントラーズを好きになるまでを書くと、こんな感じだろう。これ以降は今に至るまで、距離感は違うとしても、ぼくはずっと鹿島アントラーズが好きなままだ。

中学生になると1人でスタジアムに行けるようになり、関東圏のアウェイゲームは行けるチャンスを窺うようになった。それからしばらくして、1人でゴール裏にも行くようになった。2007年の最終節は、テスト終わりで家に帰ると親がチケットを用意してくれていて、そのチケットで観に行って10冠達成の瞬間をこの目で観ることが出来た。

その後年齢を重ねて、金銭的にも時間的にも余裕が生まれて行ける試合が増えていった。初めてシーズンチケットを買い、遠方のアウェイゲームにも行くようになった。サッカー仲間が増えていったのもこの頃だ。

2016年の終盤戦は今考えてもとち狂っていたと思うが、チャンピオンシップからクラブワールドカップ、天皇杯まで全試合現地で観た。1か月で東京と大阪を4往復したせいで子どもの頃は乗ること自体が大イベントだった新幹線に乗ることも普通になってしまったし、日曜大阪で試合観る→月曜帰る→水曜大阪で試合観る→木曜帰るというスケジュールの時は「なにやってんだろ…」と新幹線の車中で思っていた。

20年

初めてアントラーズの試合を観た2000年の開幕戦が3月11日開催だったので、今年の3月11日でぼくがアントラーズと、サッカーと出会ってからちょうど20年が経つ。

親は、まさか息子がここまでハマるとは思っていなかったのだろう、シーズンが始まった時には「またこの季節が始まるのね…」と言われたし、時々思わせぶりに「こんなはずでは…」と投げかけてくる。若干、後悔しているようだ。

ぼくはそれに苦笑いで返すことしかできないけれど、あの時親が嫌がるぼくをスタジアムに連れていかなかったら、間違いなく今ぼくがこうして文章を書いていることはないだろうし、そもそも今のぼくはないだろう。そういう意味では、感謝しかない。

ぼくはこれからもサッカーが好きだし、Jリーグが好きだし、アントラーズが好きだ。

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