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死者は単なる数字ではない。-元難民で戦闘機乗りの建築家の死。-

「ジャージィ・グロウシェフスキ氏
ポーランド人のスピットファイア乗り、97歳で死去」
"Jerzy Glowczewski, Polish Pilot in a Spitfire, Dies at 97"
TheNewYorkTimes THOSE WE’VE LOST By Nicholas Kulish
Published May 14, 2020Updated May 15, 2020

PhotoCredit...via Klara Glowczewska
Jerzy Glowczewski in his Spitfire during World War II. 

https://www.nytimes.com/2020/05/14/obituaries/jerzy-glowczewski-dead-coronavirus.html

訳者解説

新型コロナウィルスがもたらした人的被害が、日本よりもはるかに厳しい状況にあるNewYork。毎日亡くなっていった人々の人生、人柄を紹介するTheNewYorkTimesのコロナ関連コラム「我らが失った人々」より(5月14日付け記事)を訳してみました。今回もDeepL頼みの私訳です。


ジャージィ・グロウシェフスキ氏 ポーランド人のスピットファイア乗り、97歳で死去。

ナチスの侵攻を受けたワルシャワを逃れ、100回の戦闘任務をこなし、ポーランド、エジプト、アメリカで建築家としての人生を歩んだ彼は、ニューヨークでコロナウイルスによって亡くなった。

彼と仲間達は所属する国のない人間だった。

一度は電撃戦によって母国ポーランドを圧倒したナチスの軍用機と戦うため、何度も飛行作戦に参加した。第二次世界大戦中、連合国のためにポーランド人パイロット達が示した並々ならぬ勇気によって、彼らは逆境に直面した時の決意の模範であるとされた。
ポーランドの国家記銘院によると、ジャージィ・グロウシェフスキ氏(97歳)は、ポーランドの第308戦闘機中隊 "クラクフ市 "のために100回の飛行任務を遂行したという。
彼はマンハッタンの老人ホームで4月13日にCovid-19で死亡したが、彼は英国空軍と共に戦った勇敢な亡命者仲間達の最後の生き残りであったのだ。
(訳注:ナチスに占拠された祖国を逃れイギリスに集結していたポーランド国軍は1940年代半ばまでに約35000人の航空兵、歩兵、水兵を擁しており、その内約8500人が航空兵であった。第308戦闘機中隊はその中の一つ。)

1945年の元旦、グロウシェフスキ氏はベルギー上空でフォッケウルフ190をスピットファイア戦闘機で撃墜し、ドイツ空軍による西部戦線での最後の大攻勢を追い返した。
「私が肩越しに振りかえると、フォッケウルフは明るい朝の空に向かって崩れ落ちる十字架のように見えました。その後もう一つ爆発が起き、回転しながら落ちていきました。」
と彼は回顧録に書いている。
「パイロットのアクロバティックな技術と電光石火の反射神経が生き残りを左右するという、昔ながらの空中戦の最後の一つだったでしょう。」

Jerzy Eligiusz Glowczewskiは1922年11月19日にワルシャワで生まれた。

父親はリトグラフ印刷会社を経営していたが、彼が6歳の時に交通事故で亡くなり、母親のヨゼファが事業を引き継ぐことになった。反抗的な子供だった彼はイエズス会が運営する厳しい学校に送られ、そこで「問題児」として幼年期を過ごした。
1939年ナチスがポーランドに侵攻したとき彼は16歳で、そこから彼の人生は、アラン・ファーストによる第二次世界大戦時代のスパイ小説のページから飛び出してきたようなものとなった。
継父と一緒にワルシャワを脱出した彼は、ポーランド軍の残党に合流しようとした際にドイツ軍機の機銃掃射に会うが、九死に一生を得る。その後彼らは難民としてブカレストとテルアビブで暮らした。
パイロットとして訓練を受けるために渡英する前に、グロウシェフスキ氏はエジプトの独立カルパチア・ライフル旅団において連合国軍に従軍しており、リビアの最前線でも活躍した。

ドイツ降伏後、彼は戦禍に見舞われたポーランドに戻り、ワルシャワ工科大学建築学部に入学。

1952年に卒業後は建築家として、ポーランドの首都の大きく傷ついた旧市街の再建に携わり、国内各地でいくつかの工業プロジェクトを設計した。
イレーナ(レンタ)・ヘニシュと結婚し、娘のクララ・グロウシェフスカをもうけた。

1961年にはフォード財団の助成金で渡米し、ノースカロライナ州立大学で教鞭をとる事になる。その後1965年から2年間エジプトに滞在し、ソビエトが巨大なアスワン・ハイダムを建設していたアスワンの再開発プロジェクトをフォード財団の支援のもとに指揮した。カイロでは、後に国連事務総長となるブートロス・ブートロス・ガリ教授と親交を深めた。

1967年イスラエルとの戦争が勃発したため、氏は妻と娘、ダックスフントのロムルスと共にエジプトから避難した。
晩年はニューヨークのプラット研究所で教鞭をとり、ポーランド語で3巻組となる回顧録を執筆した。その後英語に翻訳され
「偶然の移住者」(“The Accidental Immigrant”)(2007)
という1巻の本にまとめられた。

娘さんと2人の孫を残して彼は亡くなった。

グロウシェフスカさんによると、彼女の父親は、まず第一に自分自身を建築家としてとらえていたので、戦時中の兵役のことが彼の人生の後半になって注目を受ける事に驚いていたという。
回顧録の中で、氏はブカレストのゲシュタポから逃れた後、イスタンブールに立ち寄った時のことを書いている。
「私たちは時折、故郷を離れてからの難民としての人生がいかに予期せぬ幸運に見舞われてきたのかについてじっくりと考えました。」
「ただ、私たちは過去の思い出にふけることもしなかったし、未来のことをあれこれと夢想したりはしませんでしたが。」

この死亡記事は、コロナウイルスパンデミックで亡くなった人たちのシリーズの一部です。他の人については下記をご覧ください。
https://www.nytimes.com/interactive/2020/obituaries/people-died-coronavirus-obituaries.html

訳者あとがき

1922年生まれというと、日本の建築家では石井修や広瀬謙二などと同年齢である。従軍経験という意味では4歳ほど年長の、芦原義信、清家清がそれぞれ大学卒業後、海軍で技術士官としてキャリアをスタートさせている。
彼らが自ら武器を手に戦闘に参加したことがあったのか私は知らないのだが、それぞれもう10年以上前に没しており、当時敵対関係にあった連合国側で戦闘機に乗っていた人物が先月まで存命であった事には驚きを感じた。
(清家清の海軍時代のエピソードでは以下のNOTEの記事が面白い。
軍隊経験と建築家|菊竹清訓と清家清、それぞれの戦後民主社会な「格納庫」
https://note.com/take_housing/n/nc9c649d679cd

少し調べた範囲ではグロウシェフスキ氏が建築家としてどのような作品を残したのかは分からなかった。旧ソ連の技術的資金的援助によって完成したアスワン・ハイ・ダムの関連プロジェクトに、フォード財団の支援を得てアメリカ側から参画する等、東と西の狭間にある母国ポーランドの様に大きな力と力の間を自身の運と力で切り抜けてきたのだろう。

そうやって激動の20世紀の数々の歴史的出来事を体験し、2001年の911テロも目の当たりにし生き抜いてきた、今や穏やかな老後を過ごしていたであろう人物の最期を人類にとって未知の疫病が襲った。

日々更新される「死亡者数」のグラフによって、生きている方の人間はこの病気の流行の行く末を思い、閉じこもったり、気を緩めたりしている。
その時には死亡者数はただの指標、係数としてしか注意を払われていない。
数字の向こうにある様々な人生の豊かさ、その喪失の重みはどこかで忘れられずにいるべきだと思う。死者は単なる数字ではない。

終わり

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