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7月1日 早朝、まだ少し薄暗い時刻に、何かをひっかくような物音とたくさんの雀の鳴き声で目が覚めた。 起き上がって見回すと、リンが寝床にしている毛布の上にリンの姿が見当たらなかった。襖が少し開いていて、物音はその向こうから聞こえた。 僕は普段、座敷の向かいにある六畳間に布団を敷いて寝ている。 部屋の襖を開けると、向かいの座敷の襖も少し開いていたので、そのまま座敷を覗いた。 リンは、座敷の奥の障子戸も開き、縁側と庭を隔てるガラス窓を時折前足で掻いている。どうやら外に出た
7月2日 朝、思いついて庭を覗いてみたが、昨日のように雀の群れがいるでもなく、せいぜい二、三羽が鳴きながら跳ね回っているだけだった。 リンも今日は庭に興味はない様子だ。 サカエダさんは相変わらず風鈴の側で、僕の挨拶に、にこにこと笑いながら頷く。 会社の昼休みにカネダさんに借りた本を返し、ひとしきりその本を話題に盛り上がる。明日、何か別の本を貸してくれるというので楽しみにしていると答えて仕事に戻る。 夜、珍しく妹から電話が掛かってきたので、池で溺れかけたことを憶え
7月3日 朝、散歩に行こうと玄関の上がり框に腰掛けて靴を履いていたら、リンがあっという間に膝の上へ登ってきて妙に嬉しそうな顔でそのまま立っている。 安定が悪いので体が揺れるが、バランスを取りながらしばらくそのまま動こうとしない。何か訴えたいことでもあるのだろうか。 なんだい? と声に出し聞いてはみたものの、何を伝えようとしているのかさっぱり分からない。仕方がないので、そのままの体勢でリンの首輪に散歩用のリードをつけた。 リンが玄関戸の方を見るのでつられてそちらを見ると
7月4日 朝、散歩から戻って朝食を作る。 居間で朝食を食べながら、サカエダさんとリンに、今日妹が来ると言ってみたが、リンは僕の声に耳を一度振り後は食事に専念している。サカエダさんは、二度ほど頷いてにっこりと笑っただけだった。 予告通り、九時になる一分ほど前に妹が到着した。リンにお土産だといって、骨の形をした犬用のガムを持ってきてくれた。 居間に入ると、先ほどまでは座って風鈴を眺めていたサカエダさんが窓際に立っている。 妹が挨拶をすると、サカエダさんも丁寧に頭を下げ
7月5日 早朝、また雀が庭に集まっている。 リンが気にしているが、別に悪さをしている様子もないので放っておくことにする。 散歩から戻り、座敷の窓から覗くともういなくなっていた。 会社からの帰り、駅前に托鉢僧が立っているのを見かけた。 聞くところによると、駅前や通りに立っている托鉢僧はほとんどが偽物だという。正常な托鉢というのは大切な修行の一環であり、鉢を手に地方の都市などを巡回して米や金銭などの施しを受けるのが本来の形なのだそうだ。 それが都心の一定の場所に立ち
7月6日 朝から相当に暑い。 あまりにも暑かったので家中の窓を開け放ったら、途端に涼しくなった。 座敷の窓を開けると、今日も集まっていたらしい雀が、一斉に飛び上がって逃げて行く。やはり、池があったところに集まっていたようだった。 こう暑いと雀も水場が恋しいのだろうと考えて、あそこに水場があったことを知っている雀はいないはずだと気づいた。池があったのはもう二十年以上昔のことだ。 正直なところ、池は元に戻したいと思っている。妹の話を聞いてからは、その気持ちが強くなった
7月7日 夕飯の後で、リンと一緒に座敷で涼んでいると、開いた窓の向こうから子供の歌う声が聞こえてきた。 幼稚園か小学校低学年くらいだろうか。「たなばたさま」を少し間延びした節回しで歌っている。そういえば今日は七夕だったな、と思い出す。 合間に、笹でも持っているのか妙に大きく、さらさら、さらさらという音も聞こえる。小さな笹飾りでも振り回しているのかも知れない。 たぶん表の道路を歩いているのだろう。歌と笹の葉が擦れるらしい音は、だんだんと移動していく。 こんな時刻に子供
7月8日 深夜、眠っていたら随分激しい風の音が聞こえて、ぼんやり目が覚めかける。 風鈴は、大いに風に煽られている。間断なくチリチリ鳴っているのが聞こえた。 サカエダさんはどうしているだろうかと思ったが、そのまま寝入ってしまった。 朝、庭を見たら昨日のまま笹の枝が四本立っていた。あの風にびくともしないとは。 祖父母からは、いちいち許可を求められるのは面倒だから庭いじりでもなんでも好きなようにしていいとは言われているが、念のために池の跡を掘り返してみていいか聞いてみる
7月9日 早朝から、かなり気温が高い。 庭ではニイニイゼミが数匹鳴いている。 夏になると、この家の庭で一番最初に地上に出てくる蝉だ。 リンは蝉の音が気になるのか、しきりと庭木の方を探していた。 散歩に行った公園では、もっとたくさんの蝉が鳴いている。リンはずっときょろきょろ周囲を見回していて忙しない。 カンダさんと会ったので、少しばかり世間話をする。 リンは、低い植え込みを見上げて、何事か僕に報告するように一声吠えた。枝を見ると蝉の抜け殻がついている。それが気にな
7月10日 今朝も庭を見たが、やはり笹の枝は四本とも無事である。 リンと散歩から戻ると、サカエダさんが風鈴ではなく空を見上げているのを見て、なんとなく傘を持って行くことにした。 ヨネヤも傘を持ってきていたので天気予報はどうだったか尋ねると、夕方近くから雷雨らしいという答え。自分だって傘を持って来て、今更何を言っているんだと笑われる。 午後三時過ぎから、予報通り雨が降り始める。雷は遠くで鳴っていた。 夜、キスミから電話が来た。 来週こちらに来る用事があるので、つ
7月11日 朝は夏空で晴れ渡っていたが、気温はそれほど高くなかった。 祖父母に池を掘り返していいか聞くと、あっさりと承諾されたので、予定通り掘り返してみることにする。 リンと散歩に行き、朝飯を済ませる頃には、風が出てきて空が曇ってきた。遠くで雷の音がするから一雨来るのかと思ったが、ぱらぱらと如雨露で撒いた程度ですっかり止んでしまった。 それでも雲だけは残っているし、風も相変わらず吹いている。池を掘り返すにはおあつらえ向きの天候だった。 土蔵の鍵を開け、中からシャベ
7月12日 朝起きてすぐに、座敷から池を覗いてみる。 池は、昨夜見た時と同じく、澄んだ水で満たされていた。 リンが僕の顔をしきりと見上げてくる。池で遊びたいのかも知れない。水質検査をどうしようかと思っていたら、思わぬ所から解決策が降ってきた。 会社から戻ってくると、ちょうど家の電話が鳴っている。慌てて受話器を取り上げると、滅多に電話など寄越さない父親からだった。 携帯電話に掛けてくれればいいのだが、必ず家の固定電話に掛けてくる。 何の用かと思ったら祖母が一人でこち
7月13日 朝、いつものように出勤する。 駅から会社までの道を歩いている途中で、後ろから追いついてきたヨネヤに声を掛けられる。 ヨネヤは僕の顔を見るなり、大丈夫かと言う。至って元気だと答えると、ここ数日何か考え込んでいただろうと言われた。 言われてみれば、このところ池のことばかり考えていたような気がする。それほど考え込んでいたつもりはなかったのだが、ふとした拍子に池を掘り返す算段を立てていたりしていたようにも思う。 ヨネヤに、池を掘り返すまでの顛末を簡単に話して聞か
7月14日 いつものように早朝から起き出して散歩に行こうとしていると、祖母が座敷から出てきた。 いつもこんな早くに起きているのかと言うので、そうだと答える。修一が朝の雀と一緒に起き出すなんてねえと、しみじみ感心されてしまった。 祖母は庭の池で、雀が入れ替わり立ち替わり水浴びをしている音で目が覚めたと笑っていた。 これからリンと散歩に行くと言うと、じゃああたしも行こうかねと言ってついてくる。 僕が居間のサカエダさんに声を掛けても、祖母は不思議そうな顔ひとつしなかった。