読みやすい本と、読みにくい本。

それは句点がいかに使われているかだとおもう。
句読点のような『、』ではない。 
『。』のような句点がどれだけ文章の中に散りばめられているかだ。

例外もあるのは想うが、高次脳機能障害になった僕としては『。』が多い方が読みやすい。 
というか、頭に入ってきやすいのだ。

だから星野源のエッセイなんかは『。』が多く使われているからすごく読みやすかった。
だから、内容もしっかりと頭に入ってきたと思う。

しかし、今読んでるエッセイは、一文が長くて、とても読みづらい。
たまにタイトルを見ないと、何の話だったっけとなるときがある。
元々、学歴書なんかは苦手意識があったが、それは句点までの一文が長いからだと思う。

教科書に載っている文学小説なんかは、どれも句点までの距離が狭いと思う。
だから俗に言う、『まる読み』なんかも成立するんだと思った。

太宰治の走れメロスなんかもそうだ。
句点が多い気がする。
中原中也の『汚れちまった悲しみに』も同じことが言える。
一文一文が短くて、まる読みの方式に当てはめると読みやすい部類になる。

教科書に乗るような文学は『。』が多くて、物語やストーリーがその年代にあっているかというところなんじゃないだろうか。

そう考えると夏目漱石の三部作なんかは、かなりドロっとした内容だと思うけど…どうなんだろうか。

話は変わるが、通りで僕はエッセイやブログ本のようなものが好きなわけだ。
もちろん、書いた人の人柄も知れるというのはあるが、なにより読みやすい。
堅苦しい著者が書いているってわけではないからな。
昔で言う、エッセイなブログ本に似ているものとすれば、純文学だろうと思う。
なかには読みずらいようなものや、小難しいものもあるが、それは今も同じ。
書き手によって変わるというのは、今も昔も同じ。
でも一つだけ言えるのは、書こうと思って題材をきめたカッチリとしたものじゃなくて、心の衝動に描き始めたものが多いということ。
それは全部内容が入ってきやすいし、興味が出るものが多い。
走れメロスなんて、冒頭でなによと思わせる。
『メロスは激怒した。』だからな。
なににそんなに怒ったんだと興味が出る。
太宰治は、冒頭で一気に引き込む天才だったと思う。

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