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鶏ガラの彼女

 お湯に浸ければ出汁がとれそうな太ももを露出させた彼女が脱衣所から戻ってきたとき、私は人参の皮をビビットピンクのピーラーで剥いている最中だった。
 お風呂いつもより熱いから、入るなら水道の水で調整してね、と告げて煎餅のような薄さの布団に腰を下ろした彼女は、もうスマートフォンをいじるつもりがないのか、充電ケーブルに繋いだヒビだらけの画面を枕の下につっこんでしまう。
 アプリケーションの通知だったり、メッセージだったりを処理してくれていればどれだけ楽だったろう。よりにもよって彼女は私と会話するという選択をした。講義はどこまで進んだのか、あの男はまだ腹を立てていたか、私がいまなにをつくっているのか。そばかすだらけの顔に化粧水を染みこませながら、私の返答には毛ほども興味がなさそうに何度か相槌を打って、すぐに別の質問を投げかけてくる。そのうち、同じ話題がまた巡ってきて、あれ、これさっきも聞いたっけ? とかすかに戯けるようなかわいらしい微笑を浮かべる様子が、人参を乱切りにする手元を見つめていてもはっきりと脳裏に浮かんだ。
 私のつくるポトフが好きだという噂が、彼女をとり巻くアレコレのひとつとして私の耳に届いたのは、彼女が恋人と険悪になって、その当てつけに私と昼食をともにしているのだという噂が立ったのと同時期だった。
 彼女の痩せた体躯はどうもその恋人の趣味だという噂もかねてからあって、あれでは抱きしめられたときに折れやしないか、潰れてしまいやしないかといった心配が彼女の友だちから上がっていたこともある。指摘されるたびに、ひとってけっこう頑丈なんだよ? と言ってからからと転がすような笑い声を響かせる彼女のどこに惹かれたのかと問われると返答に困るのだが、強いて言うならその170cmという身長と、カラカラに乾いた羊毛を思わせるグレーの髪が風にふわふわと揺れる軽やかさだったろう。
 その長身で肉づきが良ければ、きっと芸能事務所から声がかかっただろうというプロポーションとは裏腹に、顔には色素の薄いそばかすが散りばめられていて、瞳は大きいが目の端がつり上がっているから、本人にその気がなくてもなんとなくいつも不機嫌に見えてしまう。さらに、鋭い八重歯の印象から、どことなく鮫を思い起こさせる冷たさがあった。
 現に、彼女の残していく歯形は鮫の歯の標本によく似た形をしている。一度太めのウィンナーソーセージを軽く噛んだだけで口から離し、その歯形を見せてくれたことがあった。
 見て、これ、鮫の歯形っぽいでしょう? 乳歯が全部入れ替わった頃からずっとこうなの、よく歯が当たって痛いって言われるけど、わたしは気に入っているんだ。
 わざわざ「わたしは」なんて強調するあたり、その綺麗な歯形を気に入っていない誰かがいるのだろう。そんな彼女はいま、親知らずの痛みと戦っているらしい。薬でどうにか痛みを抑えこんではいるのだが、たまに思い出したように機嫌が悪くなることがあって、そんなときは決まって、先の尖り気味な薄い舌で頬の奥をなぞっている。
 頬の皮を中から破らんばかりに蠢く味蕾と筋肉の集合体が人参を鮫の歯の間に運び、さらに細かくなったそれを口内の四方八方から染み出してきた唾液とともに喉の奥へと送り届け、奥歯に刺激を与えないように、まるでかくれんぼをしている子どもが音を立てないように生唾をゴクリとするが如く飲みこむ様子は、じっと見つめていてもなかなか飽きないものだった。おいしいね、出汁が良い、野菜と、鳥と、他にもなにか入れているの? と言って、慎重に、それでも夢中になってスプーンを上下させている彼女の手首には、本を開いたようなデザインの刺青が彫られている。私には、それがどうにも親知らずに付いているように思えてならなかった。
 親知らずは「知歯」とも言う。彼女の知歯は恋人をヤキモキさせるために私と行動をともにするという知恵を付けたことへの代償なのかもしれない。それとも、恋人と破局しそうになっても一時的に自己嫌悪の波風から身を守る港として私をキープするという、強かな悪知恵を付けたことへの代償だろうか。週に2回は彼女の部屋にお呼ばれする私ではあるが、いつも風呂の勧めは断り、夕食の片付けを終えたら玄関を出ていた。一度長居をして彼女の恋人と鉢合わせし、凄まじい雰囲気になったことは言うまでもない。
 今日も片付けを終えて玄関で靴を履いていると、いつもは見送りに出てくる彼女が洗面所から出てこない。どうかしたのかと声だけで問いかけてみたら、薬、なくなっちゃった、と言う言葉が返ってきた。きっと奥歯の痛み止めのことだろう。次の言葉はわかっていた。もう風呂を済ませ、恋人相手でもないのに生足を股の下ギリギリまで見せつけるようなショートパンツで寛いでいたのだ、これからまた化粧をして出かけようなどとは考えていないだろう。果たして彼女の次の句は、悪いんだけど、買ってきて貰えないかな、だった。
 近場の薬局までは5分も掛からなかった。しかし、ぽつりぽつりと額に当たる雨粒は冷たく、急いだほうが賢明だという湿った匂いが充満していた。
 ロキソニンの表記がある市販薬を2箱と、使い切ってしまった歯磨き粉のチューブを1本、予備の歯ブラシを片手に重ねてレジ待ちの列に並ぶ。顔に対してサイズが大きいマスクの位置を挨拶のたびに直している店員を眺めながら、彼女がどうして奥歯を抜いてしまわないのかと考えた。いまや麻酔を使って特に痛い思いをすることなく治療できてしまうというのに、彼女がそこまで歯科医を毛嫌いする理由がわからない。かくいう私も親知らずはさっさとペンチで抜いてもらった身だが、その後なんの不自由もなく食生活を謳歌できている。
 小雨が降りしきる中、急いで彼女のアパートに戻ったとき、彼女はベランダでタバコを吹かしていた。下から見上げると、その細足はさらに細く針のようにさえ見える。突き出した尻は肉が薄く尖って見え、まるでキュビズムのようだ。私を認めると、彼女は軽く手を振った。その指先からタバコの灰が中空に舞う。微笑んだときにのぞいた犬歯が、白とも黄色ともつかない輝きを反射させて、ああそうか、と私は合点がいった。もしかすると彼女は、歯形が崩れるかもしれないと思っているのだろう。せっかくバランスのとれた美しい鮫の歯形が、奥歯を抜いたせいで均衡を保てなくなると考えているのであれば、それはきっと杞憂だろうに。奥歯を抜いたとしても、変わる可能性が大きいのは頬の輪郭くらいなものだ。
 急いだにも関わらず、私のシャツはしっとりと濡れていた。霧雨に近い雨足だったせいだろう。薬だけ渡して帰るつもりだったのだが、そのままでは風邪をひくと、半ば無理やり脱衣所に押しこまれた。仕方なくシャワーだけ借りることにして、ガスで流水が温まるまで、私はなんの気なしに彼女の浸かった湯船の水面を嗅いでみた。当然、鶏ガラの匂いなどはするはずもなく、かすかな石鹸の香りと、彼女の灰色の髪の毛が1本たゆたっているのを見つけただけである。
 温水を頭から浴び、いざ脱衣所へ戻ると私の服がない。まわされた洗濯機の上に、私には有り余る大きさのスウェットが、上下そろえて置かれていた。きっとこんな悪知恵を覚えたから、痩せこけた頬の奥に鎮座する知歯が暴れだしたのだろうな。仕方なく着替えて脱衣所の戸に手をかけたとき、廊下から言い争う声が聞こえてきた。家の中の廊下ではなく、これはきっと玄関先のコンクリートが打ちっぱなしになっている廊下の方だ。片方は彼女の不機嫌な声で、もう一方は聞き覚えのある男の声。きっと彼女の恋人だ。以前鉢合わせしたときの雰囲気を思い出すと、髪の生え際に嫌な汗が染み出してくるようだ。流石に2度目は言い訳できない。しかも今回はシャワーまで浴びてしまっているのだから、彼女の恋人からすれば情事の前か後にしか思えないだろう。こうしてはいられない。どうにかして見つからないよう逃げ出さなければ。
 まず玄関の靴をベランダまで運んだ。そこで思い出して、まだ5分もまわっていなかった洗濯機を止め、脱いだときよりも重く湿った服を抱えてベランダへと戻った。財布とスマートフォンはスウェットのポケットに、靴を履いて、もうはっきりと軌道が見てとれる本降りの雨を背中にうけながら、雨樋を伝った雨水を下階へ流す塩化ビニール製のパイプにしがみついて彼女の部屋を後にした。地面に降り立ち、振り返ると彼女の部屋のカーテンに彼女のもではない影が張り付いている。

 自宅の玄関をくぐる頃には、借りたスウェットも抱えた服と同じくらいの重さになっていた。灰色の布地が濃くなり、冷たく肌に張り付いてくる。ポケットから財布とスマートフォンを引っ張り出してテーブルに捨て置き、シャワー室に入った。
 私には袖も裾も有り余っているスウェットを肌から剥がすようにして脱ぎ、かすかに香る柔軟剤の芳香が肌に移っていないかと腕などを鼻に押し付けてもみたが、心を動かすような色香はなかった。
 十分に温まって、バスタオル1枚を腰に巻き、彼女が恋人の目を盗んで私にショートメールのひとつでも送ってくれていないかとスマートフォンを取り上げたら、裏側に張り付いていたらしい正方形の、その内部に丸い輪郭を閉じこめたビニール素材のパッケージが足元に落ちた。
 スウェットのポケットに入っていたのだろうそれは、彼女の悪戯心だろうか、はたまた前のときの使い忘れだろうか、あのスウェットがどちらのものだったのかは考えたくない事柄ではある。だが、拾い上げたコンドームの妙に洒落たカラフルなデザインは、少なくとも彼女の恋人のイメージとは一致しなかった。
 私が雨に濡れて戻ってきたときの、彼女の有無を言わせない強引さには正直期待しないわけでもなかった。水圧の弱いシャワーを浴びながら彼女の尖った尻が私の太ももに当たる感触を想像することも難しいことではなかったが、すでに過ぎ去り実現しえなかった過去の可能性にバスタオルを解くのは、少々未練がましいだろうか。
 手と股の温度差が溶け合って輪郭が曖昧になりはじめたとき、ふとカラフルなパッケージが目について、半ば無意識のうちに手を伸ばしていた。どうせ捨ててしまうものなら活用させてもらおうと思ったのだ。封を切って、かつて歯形を見せてくれた彼女のウィンナーソーセージを摘み上げる指先を夢想しながら装着する。
 めくりあげられたゴムラテックスを根元まで下ろしたとき、私の胸に去来したのは下腹部を満たす充足感ではなく、身の丈に合わないスウェットの袖をわざと大袈裟に捲り上げて電車に乗りこんだあのときの羞恥と、何度折り返しても踵の下に滑りこんでくる裾の情けなさだった。鍋でコトコト煮こまれた人参よろしく、いまにもほろほろと崩れてしまいそうなかすかな硬さを指の腹でもてあそびながら、鶏ガラ出汁のように濁ったゴムラテックスの中身と、彼女の浸かった湯船のかすかな皮脂のふわりと膜のかかったような白っぽさとの乖離のほどに、しばらく打ち拉がれた。 


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