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「彼氏が蛇をおいていった」22

 スマホの着信音で起こされる。
 どうにも、背中が冷たい。シーツ全体がじっとりと湿っていて、わたしの髪もしっとりとしたまま、うねるように広がっていた。
 髪を乾かさず、からだも拭かず、かろうじて下着は変えたけれど、そのままベッドに倒れこんだことを思い出す。
 邪魔な前髪をかき上げて、時計を見れば午前十時。始業時間はとうに過ぎていた。
『大丈夫なんですか』
 過度に心配している様子の加賀野の声が耳に痛い。
「ごめんね。明日も休むからみんなによろしく言っておいて、必要ならわたしのデスク開けちゃってもいいからね」
 昨日の雨でからだが冷えて、風邪をひいてしまったことにした。
 きっとみんなは大きな仕事が一段落ついて、緊張の糸が切れたタイミングだったから、と思ってくれるだろう。加賀野と在原と、宮部部長は察していそうな気がするけれど。
 通話を終えてメッセージを確認すると、荒牧からのメールが届いていた。着信もあったようだ。
 「お疲れさまです」とタイトリングされたものと、「大丈夫?」とタイトリングされた二通のメール。前者はプレゼンテーションの成功を労い称えるもので、ささやかながらふたりでお祝いしましょう、といった内容が書かれていた。
 それから六時間後、終業時間を過ぎても音沙汰ないわたしを心配したのだろう。迎えにいきましょうかとか、ぼくで良ければ力になりますとか、心配する気持ちを分解して文章に再構成し直しましたというような内容が、おもくなり過ぎない分量でまとめられていた。
『昨日は心配をおかけしてすみませんでした。帰社の途中、雨に降られてしまい、そのまま体調不良となってしまったので帰宅しました。どうもすぐに眠ってしまったようで、メールに気づけず、申し訳ありません。体調は落ち着きましたので、明日の試合には伺えます。かっこいい荒牧さんが見られるのがいまから楽しみです』
 返信のメールを送り、充電コードにつないで放り捨てる。
 片づけをしないと。スーツをクリーニングに出して、イヤリングを探して、シーツを干して、蛇に――。
 バッ! と。自分でも驚いたぐらい俊敏にからだが動いた。
 そうだ、蛇だ。思い出した。眠ってしまう前に、髪から水を滴らせながら、食紅で名前を書きこんだマウスを蛇のケージに放りこんでいたのだった。
 ケージの中をのぞく。すみからすみまで探しても、「在原夕夏」と書きこまれたマウスは見当たらなかった。蛇はとぐろを巻いて、陶器製のシェルターの向こう側に収まっている。見るからにお腹のあたりがふくれている。
「あー、吞んじゃったのか」
 それはそうだ。蛇にしてみればおき餌がされているだけで、お腹がすいていれば食べるわけだし、自暴自棄だか八つ当たりだかで書きこんでしまったわたしがわるい。
 もう一度シャワーを浴び直してから、今度こそ髪を乾かして、新しい下着にナプキンを貼りつけて穿き、できるだけリラックスできる部屋着を選んで袖をとおす。
 ひととおり部屋を片づけたら、昨日投げたピアスが見つかった。
 所定の位置に戻して一息つくと、本当に風邪をひいたのか、関節の節々が浮き上がって来るような違和感。
 これは良くないと、新しくしたシーツにすべりこんで布団を被った。
 ただでさえゆるんでいたガラスケージの戸のストッパーが、昨日わたしが投げたなにかしらがぶつかったのか、もう機能をはたしていないくらいにとれかかっている。
 新しいケージっていくらくらいするのかな。とにかくおもたいから、もし買うなら荒牧に運ぶのを手伝ってもらわなくちゃいけない。
 あのごつい拳ダコが思い浮かんで来た。
 ふくらんだ拳骨から続く指はすっと伸びやかで、中指よりもすこしだけ薬指が短くて、けど人差し指よりは長くて、刈り上げた襟足を撫でる仕草は、必ず小指から順番に全部の指でさわって、そのときに耳がちょっとだけ動くのがかわいくて、上の方がすこし尖って、耳たぶがうすいからピアスが良く映えて、耳をさわられるのは平気なくせに、肋骨を撫でられるのはくすぐったくて、すぐに身をよじって逃げちゃって、その代り、あの短くて長い薬指がわたしのおへそを下へなぞって、かきわけて――。
 暑さを我慢できなくなって、冷房のリモコンを操作した。ボタンがちょっと濡れた。


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