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「彼氏が蛇をおいていった」23

 約束の時間よりすこしはやく会場へ入った。
 試合前に顔を見せてほしいという荒牧は、拳にテーピングを施して、派手な柄のパンツとは対照的な渋めの色合いでまとめたローブを肩にかけ、スツールに座って集中力を高めている様子だった。
 かるめに控室の扉をノックすると、顔を上げた荒牧の表情が途端に明るくなった。
「あぁ、よかった。からだはもういいんですか?」
 開口一番にわたしの体調を心配してくれているあたり、なんだかむずむずしてしまう。
「心配をかけてしまってごめんなさい。お陰様ですっかり元気です」
「それなら良かった。安心しました」
 荒牧の胸元に、めずらしくペンダントがゆれていた。見たことのあるペンダントが。
「それは?」
「これ? 由良が持っていけってくれたんです。あいつ曰く、お守りなのだとか」
 そんなことするキャラじゃないんですけど、という荒牧の言葉が遠く聞こえるほど、照明を眩しいくらいに反射している。それは、わたしがつくったものだった。
 雄鹿の角から着想を得たデザイン。透かした麻の葉模様を背景に鹿のあたまから角までのシルエットがシンメトリーに整えられたペンダントトップは、はじめて値のついた一番の自信作だった。
 正直、気に入っていたから売りたくなかった一品だったのだけれど、あのバカが勝手に売りに出して配送してしまったのだ。
 そんな作品と、こんなところで再開をはたせるなんて思ってもみなかった。
「これ、預かっていてください」
 雄鹿のペンダントが、荒牧の首からわたしの首へ移る。
 ふわっ、と鼻にふれた汗と整髪剤の匂いにくらくらする。
「席はリングが一番よく見える場所に用意してあるから、通路を出たら右にいって、ブランケットがたたんでおいてあるベンチです」
 これ以上の邪魔はわるいと思って、素直に指示に従うことにする。
 荒牧はすぐにイヤホンをつけ直して精神統一にもどった。その横顔に頑張ってと声をかけてから、通路をできるだけゆっくり進んだ。このあと荒牧も歩むだろう通路に、勝利の念を一歩ずつこめて落としていく。
 先日の埋め合わせも兼ねて、試合のあとはわたしがいっぱいご馳走しよう。お肉でもお寿司でもケーキでも。きっと勝つはずだから。
「燈子?」
 男性用トイレの前を横切ったとき、聞き慣れた、けれど聞きたくもなかった声がかけられた。振り向かないわけにもいかず、できるだけ無表情を装って顔を振ると、バカ、もとい耕平が、バカ面丸出しで青いトイレのピクトさんの下にたたずんでいた。
「やっぱそうだ。どうした? お前ボクシングとか興味あったっけ?」
 わたしを殴って出ていったことなんか忘れているくらいの、つい昨日も会っていましたと言わんばかりの態度で腹が立ってくる。
「べつに。知り合いが試合するって言うから、それを観に来たの」
 とっさに知り合いという言葉をつかってしまい、申し訳ない気持ちになった。どうかこの声が荒牧の控室に届いていませんようにと心のすみっこで祈る。
 きびすを返して立ち去ろうとしたけれど、耕平はしつこくつきまとって来た。見れば首からスタッフと書かれた身分証を下げている。ちいさくアルバイト、という表記も。
「待てって。俺めっちゃ連絡したじゃん。ちゃんと謝りたくて電話したんだよ」
 言葉とは打って変わって、手首をすぐつかんでくるあたり、変わっていない。というか、反省していない。そうやってすぐに出る手がわたしの頬を打ったのだと、このバカはまったく理解できていないのだ。きっとつかまれた瞬間に跳ね上がってしまったわたしの肩の動きにも、きっと気づいていない。
「蛇だってまだお前のところにいるし、世話してくれてんだろ?」
 握力が強い。短気が。気が立っているのが肌感でびりびり伝わってくる。
「なぁ、ちゃんと話そう?」
 手を振りはらおうにも、力が出ない。昨日むやみやたらにものを投げたせいで肩は地味な筋肉痛だし、はらった瞬間に拳が飛んできそうだと、怖がってしまっている自分もむかつく。いっそ股ぐらを蹴り上げてやろうかとも思ったけれど、人気がない通路の端では得策とは思えない。
「なぁって」
「蛇の世話は、百歩譲っていいとしても、あんたのことは許してないし、なんだったら許すつもりもないから」
「なんでだよ。喧嘩なんかしょっちゅうやってたじゃんか。なんで今回だけそんな頑固なの」
「しょっちゅうやっていたって自覚があるんなら上手くいってなかったってこともわかってるでしょう。もう放してよ。痛い」
「だから、落ち着けって。落ち着かないと、話にならないだろ」
 手首をつかまれたままぐいぐい壁際へ押される。通路の途中にぽっかり空いたような給湯室の空間に押しこもうとしているらしい。もうこれ以上はやばいと思って、だれか、と声を出そうとしたら、尿くさい手で口を塞がれた。
 なりふりかまっていられなくなり、とにかく全力で抵抗した。股も蹴り上げようとしたけれど、すでに距離が近すぎて、わたしの膝は耕平の太ももにぶつかっただけ。
「暴れんなって、ほんと、話すだけだから」
 どんどん押される。なんだったら一瞬からだが抱え上げられそうにもなった。
 鞄も落ちて、靴も脱げて、髪を振り乱したタイミングであたまが耕平の鼻を打ったらしく、頭頂部の上から、グッ、とつぶれたような声が聞こえて、握る手がゆるんだ。
 ここだと思い、思いっきり眼前の胸をつき飛ばした。
耕平はよろけて二歩後退。わたしは七歩くらい駆けたところで別のひとにぶつかった。助けを求めようと顔を上げたら、ぶつかったひとは荒牧だった。
「町さん、大丈夫?」
「荒牧さん、すみません。試合の前に、こんな」
 すぐさまわたしの前に出て、耕平との間に壁となってくれる。すぐに追いかけてきた耕平が吼える前に、荒牧の矛のようにまっすぐな声が通路に響いた。
「興業のスタッフがなにをしているんですか」
 一瞬、ほんの一瞬だけ耕平がたじろぐ気配を見せた。
「もう呼びこみがはじまります。持ち場にもどった方がいい――」
「お前に関係ねぇだろうが」
 もう怒号に近い音量だった。ムキになっている。こうなると、耕平はまわりが見えなくなるどころか、後先考えずに手が出る。それでわたしも殴られたのだ。
「関係ある。ぼくの彼女だ」
「は? なに言ってんだ? そいつは俺のオンナだ」
 荒牧が、ほんのすこしあごを斜めに引いた。振り向こうとしたのがすぐにわかった。
 弁明する必要がある。もうあいつとは別れたんだと。
 けれど耕平は、わたしを尻軽だとかどうしようもないやつだとか、大きな声で喚きながら荒牧をどかせようと彼の肩に手をかけた。それでも荒牧は頑として動こうとしなかった。
「その感じだと、お前フラれたんだな」
「だからちゃんと話つけなきゃいけねぇんだ。俺らの問題なんだから出しゃばんじゃねぇよ。キープがよ」
 いまにも噛みつきそうな距離で睨み合っているふたり。
 口を開けば殴りかかってきそうな耕平と、振り向いたときに見る荒牧の目がどうなっているかわからなくて怖い。だからわたしはズルいとわかっていながらも声を発することができない。
 いまにも炸裂しそうな爆弾を前にしているみたいな、異常な緊張感がどのくらい続いたのだろう。時間ですと、荒牧を呼びに来たスタッフがわたしたちに気づいて駆け寄って来た。
 良かった、すくなくともこれで場が荒れる心配はなくなる。
 そう思った矢先、わたしのあたまと耕平の鼻がぶつかったときよりもおもく、にぶい音がした。
 振り返ると、荒牧の足もと、リノリウムの床に点々と落ちた赤い斑点が見える。
 なにがおきたのか、すぐにわかった。
 わたしのせいで、荒牧に暴力が振るわれてしまったのだ。
 なにをしているんだと、呼び出しスタッフに連れられた警備員が耕平を羽交い絞めにする。耕平はずっと抵抗をし続けて、わたしへ罵声を放ち、荒牧を腰抜けだとか腑抜けだとか、さんざん罵ったくせに、最後は引きずられるようにして連れていかれた。
 大丈夫ですか、というスタッフの差し出してきたイベントのタオルを受けとってはじめて、自分が泣いていたことに気づいた。
「大丈夫です。もう終わりました」
 荒牧がしゃがみこんで、わたしの視線の高さに合わせてくれる。その鼻からは血が流れていて、声もこもっていた。
 試合の前なのに。
「しばらく、スタッフについていてもらうから、なにかあったら言ってください」
 それきり、荒牧は立ち上がって、会場へと歩いていってしまった。スタッフのひとりからタオルを受けとって鼻をこするような仕草をしたが、すぐに入場曲が流れはじめて、そのまま歓声と拍手の中へ飛び出していく。
 満足に呼吸ができないはずの荒牧は、善戦こそしたものの、最後は判定で負けてしまった。
 その日はもう会う気にはなれなくて、退場する荒牧の背中を見送ったら、すぐに会場をあとにした。その日のうちにメールは打てず、荒牧からも連絡は来なかった。


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