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「彼氏が蛇をおいていった」26

 靴が鉛にでもなったかのようにおもい。鞄もおもい、傘もおもい。
 引っ張られるように、気分もずんと沈みきっている。
『残念だけれど、あなたより在原の方が適任だった』
 宮部部長の声がすぐ耳元で聞こえるようだ。
 悔しくても動かせない事実。部長職には、わたしは、やっぱり向いていなかったみたいだ。
 大局を見据えて、という表現は、なにもオフィス全体を観察して浮足立っているところに人員を割く、ということではないらしい。
 無駄な指示を飛ばし、求められている行動を誤って、見当違いな相手をフォローする。
 唯一の及第点をつけるとすれば、どうしてもと言ってくる顧客との折衝をきれいにさばけたことくらいか。
 アパートの前に広がった水たまりを避ける気力も残っていなくて、パンツスーツのすそが跳ね返った雨粒で暗くそまった。
 いつも信号無視をしていた交差点で事故に遭った在原の状態は、思っていたほどの軽傷ではなかった。まず、足が折れた。剥離骨折らしいのだが、しばらく松葉杖が必要らしい。そして、顔に大きな傷ができた。左の頬からあごに向かってのすり傷で、これは跡が残ってしまう可能性もあるのだとか。
 やっとの思いで階段を上りきり、角部屋の自宅まであとすこし。
 洗面所の窓から明かりが漏れていた。
 みっこ先輩の家から帰って来て、大急ぎで支度をしたから消し忘れたのかもしれない。ドライヤーのコードも巻き忘れた気がするし、脱ぎ捨てた服もベッドの上だ。
 ドアの鍵穴に鍵を差しこむ。
「……開いてる?」
 まさか鍵までかけ忘れたのか。どこまであわてていたのか。
 玄関をくぐって内側から鍵をかける。
 これでやっと一息つける。そう思って息を吐いたとき、あいつの服と一緒に捨てた柔軟剤の芳香が鼻についた。
 ぞっとして、閉めた鍵をまた開ける。
「いるの?」
 呼びかけたが、返事はない。
 玄関、廊下と明かりを順番に点けながら進み、照明が点いたままの洗面所と脱衣所、風呂場も確認する。
 だれもいない。残すは奥の部屋だけ。
 照明を点け、引き戸を縦に分割するようにつけられたすりガラスから中を確認する。
 動いている影はない。音もしない。気配もない。
 思い切ってドアを開ける。なんの代わり映えもしないわたしの部屋があるだけだった。
 ガラス戸の向こうの、ベランダ兼作業場にも人影はない。
 どっと肩の力が抜け、ついでに足の力も抜けた。
 ぺしゃりと座りこんだら、テーブルの上に、見覚えのない紙を見つけた。
 手を伸ばしてとろうとしたら、部屋の端の方に違和感を覚える。
 そこにあるはずの、蛇のガラスケージがなくなっていた。
『蛇は返してもらう』
 殴り書きに近い、耕平の字だった。
 玄関はきっと合鍵で開けたのだ。耕平が出ていってから、まだ鍵を変えていなかったことを思い出す。
 合鍵は、おき手紙の下にあった。なんのストラップもついていない、はだかの金属。
 いまならこのギザギザで手首も切れそうだ。
 わるいことはかさなる。みっこ先輩のつぶやきが思い起こされるようだった。
 部屋のすみにからっぽな空間がぽっかりと空いていた。
 これで蛇の魔法はつかえなくなってしまったわけだ。
 帰路の途中、わたしの指示を無視したり逆らったりした社員を呑ませてやろうと、一瞬でも考えていた自分が恥ずかしくなる。
 こんなんだからダメなんだ。自分で頑張らずに、変なものに頼ったりしたからバチが当たった。ズルまでしたのに部長にはなれず、在原にケガをさせ、加賀野もわたしからはなれていった。
「やばい。泣きそう」
 口をついて出た言葉とは裏腹に、まつ毛の下は乾ききっている。
 テーブルに肘をついてうなだれたら、天板にペンダントが当たって音が鳴った。
 あわてて着替えたから、外すのを忘れていた。
 きっと、荒牧にも愛想をつかされたにちがいない。
 今度こそ涙が出そうだった。
 台所で、マウスに食紅をつけていく。
 もう呑まれることのない悲しい餌は、わたしの名前を抱いたまま、明日の朝には腐って強烈な匂いを放つだろう。
 鍵のギザギザじゃ手首は切れない。冷たいシャワーで凍死もできない。
 それならせめて、蛇に呑まれる資格すらないわたしは、すでに死体となったネズミと一緒に、腐って消えていってしまえば良い。
 そうでもしないと、惨めな気持ちは拭えないし、明日の仕事にも打ちこめない。
 はやく腐ってほしいから、今夜は冷房を点けないで眠ることにした。
 やっぱり、あるべきピースの欠けたパズルを前にしたような感覚だ。たったひとつが抜け落ちただけで、他人の顔をしてみせる部屋。
 冷房の残滓を感じながらベッドに寝転がる。
 蛇のケージがあった場所の隣に、段ボール箱がある。
 そういえば、加賀野に言ったっけ。「穴を開けた程度で変わる運命なら、よろこんでからだじゅう穴ボコだらけになってやる」って。
 からだに穴を開けても、運命はたいして変わらなかった。蛇の魔法、というより呪いをつかうたびに、ぼこん、ぼこんと穴が開いて、大切ななにかが流れ出ていった。風が穴をびゅうびゅうとおり抜けていって、からだを芯から冷やしていく。汗をかくのに、中がさむい。とてもさびしい。
 明日を思うと胸がつぶれるようだった。
 やっとの思いでタオルケットを被って、からだを抱くように手足を縮める。
 これでいい、これが等身大なんだ、わたしなんか。
 やっと、涙が一粒、鼻筋を流れた。
 その澪が乾くのを、じっと耐えるように待った。


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