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「彼氏が蛇をおいていった」20

 アイ・トリップ社からの帰り道、わたしたちは豪雨によって足止めをくらった。
 さんざん遅れた梅雨入りの雨が、とうとう我慢しきれなくなって決壊したようだった。むしろ今日までよく持ちこたえたなとほめてあげたくなるほどの暴風雨だ。
 宮部部長と駆けこんだ避難先の喫茶店で、芸能事務所の担当者に捕まった加賀野が追いついてくるまでの時間をつぶすことになった。
「ほんと、まさかあそこから巻き返しちゃうなんて」
 おなかの子のためにカフェインは控えているの、と言った宮部部長は、わたしの持つイメージにはなかったクリームメロンソーダを、先がスプーン状になったストローでかき混ぜている。
「苦労したんですよ。最初の担当者はネチネチしているし、予算はころころ変わるし、まぁ、自業自得だったんですけど」
 わたしはあたたかいほうじ茶ラテをオーダーした。
 あの日の前後は体を冷やしてはいけないと母に言いつけられていたのがそのまま習慣になってしまっただけなのだけれど、最近ではおもい日であろうとなかろうと極端にからだを冷やすことは毒だとわかってきたから、湿度が高くて、冷房が必要になる季節ほどあたたかいものを飲むようにしている。
 雨足が強くなった。客を長居させるための穏やかなクラシックBGMは、出たらひどい目に遭うぞと言わんばかりの風雨によってその役をとって代わられていた。
「このまま面談しちゃおうと思うのだけれど、かまわないわよね」
 テーブルの真ん中に部長の押しやったメロンソーダのグラスの底が水滴となって残っている。
「はい。かまいません。よろしくお願いします」
 やっと来た。このときが。
 平静を装ってはみたものの、やはり胸が弾むように跳ねてしまって、ほうじ茶ラテをひとくちふくむ。在原と一緒に飲んだものより、今日のはずっと甘く感じた。
 部長は鞄からファイルを出して、なんページかめくった先で視線を泳がせてから、すぐにわたしにもどした。
「結論から言ってしまうと、今回の昇進は見送る」
 むくむくとふくれていた期待の泡が、ほんの一瞬で消えてしまう。
弾けるわけでもなくしぼむわけでもなく、ただふっと息を吹きかけたら、最初からそこにはなにもありませんでしたという当然な空洞となってしまっただけ。
「どう、して、でしょう」
 かろうじて敬語を保てた自分はえらい。そう思ってみても、いまにも立ち上がってテーブルをたたきたい気持ちは、突然現れた胸の空洞をつき抜けて外に飛び出して来そうだ。
「なぜなら、部長職に適任ではないと思うから。もちろんあなたの残してくれた業績や利益は大きい。それは間違いないわ」
 部長はじっとわたしの瞳を見つめながら淡々と続ける。それが一種の礼儀なのか、はたまた牽制なのかはわからないけれど、決して反論を許さないというような目力だ。
 見張られているから、わたしもむやみやたらに挽回の考えをめぐらせることができない。
「一社に対してじっくりと時間をかける手法は顧客思いではあるけれど、それはあくまでプレーヤーとしての心構え。マネージャー要素の強い管理職は、もっと大局を見て、内部のひとを見て、迅速にタスクをさばけないといけない」
「ですが、わたしも自分のチームメンバーのマネジメントは怠っていないつもりです」
 これが、一筋の光明にすがる、という感覚だろうか。なんだか子どものころに、カーテンから漏れてくる日の光を手で遮ったりつかもうとしたりしたときの感覚に似ている。
「加賀野だけでしょう。他のメンバーは最低限。しかも、自分のチームのみ。在原のチームのメンバーと厚いコミュニケーションをとったことなんて、両手の指の数で足りるんじゃないかしら」
「そんなこと」
 ない、とは言いきれなかった。
「なら、在原はどうでしょうか。チーム間をまたいだコミュニケーションができていたと」
 部長の眉間からいぶかるような雰囲気が漏れ出る。
「妙なこと聞くわね。あなた、その瞬間をなんども目にしているでしょう」
 そうだ。加賀野のスカウトだ。御法度として毎度注意をしていたけれど、在原は加賀野だけではなくて、他のメンバーにも声をかけていた。
「ひとの素質をいちはやく見抜いて、その子がもっとも力を発揮できるところに配置する。必要とあれば異動も促し、大局を見据えて行動を起こす。これが管理職に求められる必須のスキルよ。残念だけれど、あなたより在原の方が適任だった」
 二度目の衝撃には、もう反応する余裕もなかった。ただ、在原が部長の椅子に座るという事実が、容器からすべり出たゼリーみたいに、わたしのみぞおちにつるんと落ちた。
「では、在原のチームは、だれが今後の指揮を」
「……加賀野にやってもらうわ」
 すぐ近くに落雷があったらしい。一瞬それ以外の音がかき消されて、すぐにもどって来る。
 爪先がテーブルの支柱を蹴りそうになって、あわてて引っこめた。
「加賀野に」
「そう。あの子がとろい新人だったのはもう過去のことよ。あなたの教育もあるけれど、最近の仕事のはやさと確実性には目を見張るものがあるわ」
 おめでとう、加賀野。これでもうわたしのアイラインをひかなくて良くなるよ。
「それは、合流したらケーキでも奢ってあげなくちゃいけませんね」
「そうね。勤務年数にしてみれば大抜擢だもの」
 そこですこし間が生まれた。まだ一番重要な話が聞けていない。自分自身の進退について。
「では、わたしはこのまま、現状維持ですか」
 部長の視線はファイルに落とされたまま、しばらく動かなかった。
 雨が小降りになった気配がすると、意を決したように宮部部長が瞳を上げた。
「町。あなた企画・営業部に移りなさい」

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