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「彼氏が蛇をおいていった」29

 居場所がなくなったって、仕事には出なければならない。無責任に投げ出すことは恥だ。
 一度はじめてしまったなら、最後までやりきらなければいけない。
 社会人としての義務感だけに引っ張られるようにしてオフィスに踏みこむ。
 みんな一様にせわしなく立ち働いていた。ほんの一瞬だけわたしに視線が集まったけれど、すぐにもとの状態へともどる。
 部長の席に在原が座っていた。書類に囲まれ、四方八方から指示をあおぐ声がかかり、そのひとつひとつをテキパキとさばいている。
 わたしとは方法が違う。求められて応じる動き方だ。余計なことはしないで、頼ってくるひとの波が途絶えたら、やっと書類に目をとおしたり、どこかへ電話をかけたりしている。
 自分の仕事をこなしながら在原の手腕を観察していると、いつのまにか真横に加賀野が立っていた。わたしと同じように、在原を見つめている。
「わたし、在原さんに憧れていました。びっくりするくらいたくさんの仕事を的確に処理して、みんなをまとめて、結果と成長の還元率が高い。すごいひとだとずっと思っていました」
 加賀野の口にしたことは、わたしが在原に感じていた悔しさをそのまま言葉にしたものに近かった。わたしにはないもの。努力しても手に入らなかった、在原の素質。
 正直、入社当初から敵わないと思っていた。それでもここまで食い下がって来られたのは、がむしゃらに在原を追かけて来た結果なのだ。
 このあと、クライアントの来社予定があります、そんな顔で迎えられませんから、と言われ、加賀野に連れられて化粧室へ移った。わたしをスツールに座らせて、加賀野は自分のメイク道具を洗面台の一角に広げる。
 一言も発さずに手を動かす加賀野の瞳は変わらず真剣で、ちょっと大人びた気もする。化粧ポーチにぶら下がっている推しのアイドルストラップは代わり映えしないけれど。
「町さんのことはとても尊敬しています。仕事のできないわたしの面倒を見てくれて、企画立てのいろはを教えてくれて。顧客のニーズの底の底まで追求する町さんの姿勢は、在原さんとは違ったすごさがありました。このひとの前では、顧客の要求は丸裸にされて、だれもがハッとさせられるような核を見つけ出してくる」
 あごを支えられているので、うなずきも返せない。加賀野はひとりでしゃべり続けた。
「わたしは、不安です。町さんみたいに、これから来るメラキの方の、要求の核を見つけ出せるのか、自信がありません。でも町さんはいま参っちゃっているから、一番弟子だったわたしがしっかりしなくちゃって思います。準備もしました。いろんなひとに相談もしました。けど、やっぱり町さんの一押しがほしいんです」
 アイラインを引く筆が離れていった。あごからも指か外れ、泣きそうな加賀野が目の前に立っている。
 どうしよう。なにも言えない。言う資格がない。まだ、ちゃんと謝れてもいないのに。
 言葉も呼吸も渦を巻いて、鎖骨の奥で滞留している。
 苦し紛れに手を動かしたら、ポケットに違和感を覚えた。なにかかたくて、小さいものが。
 はっとして手をつっこむ。つかみ出して、ゆっくり手のひらを広げたら、アレキサンドライトがきらりと輝いた。クチナシの花のネックレスだった。
「それ」
 吸いこまれるようにシルバーのクチナシを見つめている加賀野に視線の高さを合わせて、正面から抱きしめるように、ネックレスを首にかけてあげた。
「ほんとに、ありがとう。そんなこと言ってくれるなんて思わなかった。それで、ごめんなさい。ずっと、挑戦の邪魔をしてしまっていて」
「邪魔なんて、そんな」
 加賀野を鏡の前に立たせて、ネックレスに飾られた自分を見せてあげる。
「大丈夫。あなたはもう立派に仕事をこなせる。由良さんとだって、対等に渡り合えるから、自信もって。ほら、すごく似合ってる」
 加賀野はほっと熱のこもった瞳で鏡を見つめた。
 張り詰めていた緊張の糸も、かすかに緩んだようだった。


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