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「彼氏が蛇をおいていった」28

 玄関のドアが開いた。
 もう五回以上インターホンを鳴らしていたから、そろそろ入って来るかもと思っていたところだった。え、さむっ、というおんなの声。その声を聞いて、ほんのすこしだけ冷静さがもどってきた気がする。
「あんたなにやってんの?」
 松葉杖をついた在原だった。おじゃまします、と、そのうしろに加賀野の姿もある。
「ちょっとこれいくつよ。十六度。バカじゃないの」
 在原の大声が耳に痛い。ひとの部屋にずかずか上がりこんできた在原とは対照的に、加賀野は部屋の入り口でじっと立ち止まっている。
 その視線は部屋の一点に向けられていた。部屋の中心、冷房の風がもっともよく当たるテーブルの上に、洗濯ネットに包まれた蛇がうごめいている。
「なにこれ? え、蛇ぃ? きもっ」
 在原が洗濯ネットをのぞきこんでさっと身を引いた。
 加賀野が恐る恐る、テーブルを避けるように大まわりして、わたしが膝を抱えているベッドの脇までやってきた。町さん、という呼びかけは、なんだか病人を相手にしているときのようだ。
「町さん、大丈夫ですか? 昨日、わたしが無理を言って出てもらったから」
 どうやら加賀野は自分の呼び出しが、わたしの不調のぶり返すきっかけになったと思っているらしい。どこまでもやさしい、バカな後輩だ。
 顔を上げたら、在原も加賀野もマスクを着けていた。
 会社に常備されている不織布マスクだ。さらに在原のあごから左耳までのラインには大き目のガーゼまで貼られているから、目元以外の顔がほとんど白い布で覆われているようだった。
「ごめんなさい」
 謝罪が口をついて出た。時計の針は午後二十一時を示しており、立ったままのふたりはスーツ姿だ。きっと残業終わりに直接わたしのうちに来てくれたのだろう。
「ほんと、いい迷惑よ。うかうか入院もしていられないじゃない。お陰でリハビリがはかどるったらないわ」
 加賀野の手がふれる。熱い、いや、わたしの皮膚が冷えきっているのだ。
 蛇に呑んだマウスを吐き出させようと、必死で検索した結果、気温が下がって自分の体温も下がると消化不良を起こしてしまうので、呑んだ餌を吐き出すという習性がわかった。
 どれだけ寒くすればよいのかわからず、ただ冷蔵庫に閉じこめるのも、それで死なれたら後味がわる過ぎるので、冷房で設定できる最低温度を、ほぼ一日中点けっぱなしにしていた。
 それでも、蛇はなかなかわたしを吐き出さない。
「とにかく寒いから一旦切るわよ」
 在原の指がエアコンのリモコンにかけられた。とっさに飛びついてリモコンを奪う。ぎょっとした在原が、二、三歩よろめいて倒れそうになるのを、加賀野が受け止めた。
「なに考えてんのあんた。こっちは足折れてんの」
 そう。在原の足を折ったのはわたしだ。わたしが蛇に在原を呑ませたからだ。
「ごめんなさい。ごめんなさい。だって蛇が、蛇が」
 まさか蛇の魔法の話したところで、どうしようもない。気が狂ったのだと思われるだけだから、ただ謝ることしかできない。
 町さん、という声に引きもどされる。
「スタジオ・メラキの由良さんという方から連絡がありました。会社のロゴ、どんな感じで進んでいますか、と」
 じゃらじゃらと鳴るアクセサリーと、マンバンヘアが思い浮かんだ。由良。そうだ。彼の仕事は、まだデザインも上げられていないじゃないか。
「町さんの体調不良は伝えて、デザインもまだと言ったところ、町さんがいなくてもデザインは進むはずだとご意見をいただきました。アイ・トリップ社のデザインをやったひとが健全なら、進むはずだと」
「町。あんた。どういうつもり?」
 あぁ、しまった。
 メラキの、由良からの仕事はわたし指名で営業をとおした案件だったから、加賀野にも、ましてや指原にも詳細を語っていなかった。わたしがいないとまわらない。そんな状況をつくって悦に浸っていたのが裏目に出てしまった。
「アイ・トリップ社のデザイナーって、加賀野でしょう。それに、なんでプレス前のデザインとデザイナーの存在を外部の人間が把握しているのよ」
 十六度の室温のはずなのに、こめかみが熱い。汗が脇の下をたれていった。
 わたしが押し黙っていると、次いで加賀野が言葉を発した。
「わたしの一存で、サンプルとなるデザイン案をいくつか先方に提示しておきました。検討の時間を稼げると思ったのですが、メラキの方は即レスで、デザイナーと直接話して決めたいとおっっしゃっています。からだがきついようなら――」
 わたしひとりでいってきますけど。
 最後のひと言で悟った。もうわたしは必要ないのだ。加賀野に。デザイン部に。
 在原と加賀野はわたしの反応が得られないとわかると、そそくさと玄関を出ていった。
 冷房は十六度のまま。蛇はまだ、マウスを吐き出さない。
 握っていたリモコンのボタンを押す。うっすらと聞こえていた駆動音がちいさくなり、冷気の流れが停止した。
 ベランダへのガラス戸を開ける。ほっとするほど生あたたかい風。
 寒暖の差で二の腕がしっとりとする。夜気にふれたものすべてが、一緒に汗をかく。
 スマホの画面の曇りをなぞったら、荒牧という表示が浮かび上がった。
 なぞっていたから、意思に反して通話表示にふれてしまう。
 町さん、という呼びかけに、はい、と応じた声が濡れてしまっていた。
 もうどうにでもなれと、蛇の秘密も、耕平のことも、洗いざらい吐いてしまった。由良との仕事で自分がどれだけ自己中心的に動いていたのかも、ひとつのこらずぶちまけた。
 なにもかもを聞いてしまって、それでも荒牧は「大丈夫」と言った。
「ぼくのお守りを持っていますから」
 自然と首元へ手が伸びる。わたしのもとへ帰ってきたわたしの自信作が、ひんやりとした手ざわりでぶら下がっている。
『由良から受けとったというのは本当ですが、贈られたわけじゃないんです』
 荒牧は自信の持てない自分への装備品のつもりだったのだと、恥ずかしそうに打ち明けた。アクセサリーマニアの由良を介して、彼のおすすめを、言われるがまま購入したのだと言った。
『はじめのうちは半信半疑だったのですが、そのうち、大事な場面には必ず着けていくようになりました。ボクシングの試合前とか、好きなひととの初デート。大きなプロジェクトの行末が決まる場面にも、目立たないようチェーンを革紐に替えて身に着けていました。町さんのプレゼンのときも着けていたんですよ』
 意外だった。どちらかと言えばイケイケな見た目をしている荒牧が、そんな気弱な内面をかくし持っているなんて。いつも自信たっぷりで、ユーモアもあって頼りになる。それが初対面からいままでの荒牧だった。
『でも、この前の試合で、そのペンダントなしで町さんを守れたときは自分でも驚きました。お守りなしで、あんな態度を示せたのははじめてだったんです』
 話が逸れましたね、と荒牧はひとつ咳ばらいをはさんだ。
『とにかく町さんは大丈夫です。そのペンダントがあるから、というよりは、そのペンダントがなくても堂々としていて強い町さんなんですから、蛇の魔法なんて、心配しなくてもいいんです』
 荒牧とはじめて夜を明かした日を思い出した。あのとき、試合を見に来てくれるかと聞いてきた彼が、どうして子どもっぽく見えたのか。その理由がなんとなくわかった。
 外気によってすこしずつ部屋の中があたためられるように、こりかたまって胸につかえていた不安がやわらかくなっていくのを感じた。
 自信がない荒牧の精一杯の励ましが、なんだかとてもかわいく思えてきた。
「ありがとう。すこし落ち着きました」
 気づいたら、すぐ足もとから饐えた匂いが立ち上ってきていた。
 蛇の顔の前に、なにかが張りつくようにして横たわっている。
 蛇は顔を背けるようにして洗濯ネットの端へ移動してとぐろを巻いた。
 溶けてしまってかたちを残していないけれど、きっとこれは吐き出されたマウスだ。
『町さん?』
「もう、大丈夫です。今度、ちゃんとお礼させてくださいね」
 それからいくつか言葉をかさねて通話を切ると、時計は〇時目前だった。


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