「彼氏が蛇をおいていった」30
応接室に消えた加賀野と由良を待って、もう三十分になる。
在原が本領を発揮して落ち着きをとりもどしたオフィスでは、みんな一様に応接室へ意識を向けているようだった。
一度は止めてもらった来社面談の、再開一発目がスタジオ・メラキの由良だったのだ。わたしへは会釈のひとつをよこして応接室へ入っていく由良は、居酒屋での顔とは打って変わって、恐ろしく鋭い経営者の顔をしていた。一瞥のもとに、デザイン部にいた社員全員を呑みこんでしまいそうな渦巻の気配が、応接室への引力となってオフィス全体を引きつけている。
町、と呼ばれて振り返ると、在原が立っていた。
「大丈夫?」
「大丈夫よ。加賀野だもん」
「ちがうよ、あんた」
心配そうな声音。それはそうだ。昨日あんなとり乱した姿を見せてしまったのだから。
「昨日は、こめん。変なところ見せて。それから――」
いろいろ、ごめんなさい。
向き直ってあたまを下げるわたしに、在原はなにも言わなかった。
出よう。デザイン部を。宮部元部長の言うとおり、わたしはこの部署に向いていなかったのかもしれない。
迷惑もかけた。居場所だってちいさくなって、もうないも同然。これ以上デザイナー職にしがみついたって、腐っていくばかりなことは目に見えていた。
在原はまだなにも言わない。けれど急に声音を明るく変えて、弾むような声が降ってきた。
「今夜はあんたの奢りだからね。パエリアとか食べたいなぁ」
顔を上げると、在原はよそへ視線を送っている。その先には応接室の扉があって、加賀野が扉を閉めるやいなや、わたしたちに向かって、あたまの上で大きな丸をつくって見せた。
オフィスがにわかにわき立つ。強力な引力はいつの間にか消え去っていて、祝福の拍手がちらほらと上がり、小さな輪のようになって広がった。
かけ寄って来た加賀野に飛びつかれて、わたしの緊張もやっと解かれた気がした。
膝の力が抜けてしまって、加賀野を抱き返したまましゃがみこんでしまう。
ちょっとぉ、まだなにも終わってないんだからねぇ、と在原が全体へ号令をかける。
細波のような拍手がおさまり、せわしなさがもどってきた。
在原に引っ張り起こされ、ふたりも、ほら、と各々仕事にもどされる。はなれていく加賀野は幾度も振り返ってはピースサインを送って来て、クチナシのネックレスが、他でもないここが自分の居場所だと言っているかのように、加賀野の胸元で輝いていた。
その夜、わたしたちははじめて三人で歓楽街へと繰り出した。
在原の音頭で、今日だけはと加賀野もハメを外してお酒を飲んだ。
驚かされたのは、わたしや在原なんかよりもずっと、加賀野がお酒に強かったということ。
慣れた手つきでショットグラスをたたいて見せた彼女に、わたしも在原も度肝を抜かれた。この子はきっとおおものになるわ、という在原の言葉に、素直にうなずけた自分がうれしかった。
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