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「彼氏が蛇をおいていった」25

 有休を半休に切り上げて、みっこ先輩のガレージから着替えのために自宅をいったん経由。おっとり刀でオフィスへとかけつけた。
 一言で言えば、現場は大混乱、というこすられた表現がぴったりくる光景だった。
 電話は鳴り響き、資料の山は崩れ、社内アプリを介したメッセージのやりとりでは間に合わなくなって、あれはこう、これはどうで、どれがそれ、といった悲鳴のような会話が飛び交っている。
 宮部部長が休職し、在原が突然消え、わたしも体調不良で不在。
 まるで指揮者のいないオーケストラだ。演奏前の、ハーモニーを確認するための音出しにも似ている。楽譜もなく、ただ各々が自分の音をどこかのだれかへ届かせようと必死で音を鳴らしている。そんな感じ。
「町さん。すみません。まだ万全じゃないのに」
 わたしのチームは、加賀野がわたしのやり方を真似てどうにか指揮をとっているようだった。もともと自己主張の強すぎるメンバーはいなかったから、みんなおとなしく加賀野の提案にしたがって、各々の役割をギリギリでこなしている印象。
 けれど、メンバーの主張が強い在原チームの狼狽は、見ていられないほどだった。
 まず、メンバー間のやりとりが喧嘩のような激しさだ。口に出している言葉の内容は、両者的を射ているといった様子で、要は優先順位を争っていた。
 予算を重視すべきという意見と、良い企画を完成させるために予算を増やそうという意見。そこに割りこむようにして、いまの予算のままに発注先を変えれば丸く収まるという横槍が入り、いや、そのデザインはあのアーティストじゃないと成り立たない、という頑固者がその槍をつっぱねる。
 在原はこんなやつらの手綱を握っていたのか。
「全員注目!」
 仕事モードに切り替えて、腹の底から声を出した。もやもやとわだかまっているいろいろを、一旦忘れてしまうためにも。
「まずはクライアントへ状況の説明! 無理して進めると破綻するから、責任者の不在は言い訳にしていい。どうしてもという先方がいたらわたしにまわしなさい」
 ある程度の指示を飛ばして、思いもよらずして座ることになった部長のデスクにつく。
 さんざん目標にしてきた部長席からの景色は、いつものようにスタイリッシュに仕事をこなす面々の姿ではなく、大災害を経て混沌に突入せん、とばかりに荒れ狂った惨状だった。
 落ち着いて。宮部部長にも、在原にもでると判断された仕事だ。わたしができないはずがないじゃない。
 まずは企画・営業部に連絡をとった。
 今日の新規顧客面談はいま入っているだけ、これ以上増やさないように。夕方の、まだ調整が聞きそうな顧客にはキャンセルとお詫びを。後日、わたしが謝りに伺う。
 わたしは全体を見ながら崩れそうなところに指示を飛ばし、それ以外のフォローや実務は加賀野が率先して動いてくれた。自分の仕事も決して簡単ではないのに、一生懸命にかけまわってくれている。在原のチームも加賀野が上手くまとめてくれたようで、一時間も経てば、みんな加賀野の指示をあおぐように動きはじめるかもしれない。
 宮部部長の、加賀野への評価は間違いじゃなかった。
 加賀野はリーダーとしてふさわしい采配を発揮しつつある。
 それと相反するように、わたしの「できるはず」という自負は、すこしずつ、けれど目に見えて瓦解しはじめていた。


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