乙巳の変の勃発


645年6月、朝鮮半島からの貢物が、天皇に献上される儀式が執り行われる。席上には、大臣入鹿をはじめ群臣たちが参列。国書を読みあげるのは石川麻呂である。

予定では、石川麻呂が読み終えるまでに中大兄皇子の従臣・佐伯子麻呂が切り込む手はずだったが、なかなか行動に移さない。石川麻呂は焦りを覚え、冷や汗が噴き出し手が震え、声も乱れる。それを不審に思った入鹿が石川麻呂に、「どうして震えているのか」と訊ねると、石川麻呂は「天皇を前にして緊張しています」と答える。

この状況に業を煮やしたのが、中大兄皇子だ。皇子は自ら剣を抜き、入鹿に斬りかかった。驚いた入鹿は、狼狽して立ち上がる。そんな入鹿に対し、子麻呂も斬りつけた。

深手を負った入鹿は玉座まで転がり、地面に頭をつけて命乞いをする。驚いたのは天皇も同じだった。皇極天皇は中大兄皇子に対し、「一体何事か」と問う。皇子は「入鹿は大王家を滅ぼし、王位を傾けようとしています」と上奏。天皇はそれを黙認し、殿中に入っていったのである。

その後、入鹿は頭と肩を斬られ、足を刺されて絶命。これがいわゆる「乙巳の変」の概略だ。

翌日、蝦夷は自宅に火を放って自害、皇極天皇は中大兄皇子に皇位を譲る意向を伝える。史上初めてとされる譲位だ。しかし、皇子はこれを固辞。理由は、兄であり健在の古人大兄皇子を差し置いて即位すれば、皇位目的でクーデターを起こしたとの憶測が広がってしまうからだ。これは鎌足の助言に皇子が従ったもの。そこで、中大兄皇子の叔父にあたる軽皇子が立つ。36代孝徳天皇である。

孝徳天皇は皇極天皇の同母弟で、この時すでに50歳を超えていた。クーデター後の混乱期した朝廷をまとめるには、うってつけの年齢だともいえる。ただ、孝徳天皇は古人大兄皇子を推していたが、古人大兄皇子は出家して吉野へ隠遁。鎌足や皇子の側にしてみても、蘇我との縁が深い古人大兄皇子を擁立する気はない。事実、中大兄皇子は古人大兄皇子が謀反を企てているとの密告を受け、クーデターの3か月後に討たせている。

乙巳の変ののち、新政権によって行われた政治改革が、「大化の改新」で、翌年の1月1日に4条からなる「改新の詔」が発せられた。

大化の改新は本当に行われたのか?

 
改新の詔の内容は、「天皇や王族、豪族による土地および人民所有の廃止」(第1条)「首都の設置と地方行政組織の整備および、その境界の画定」(第2条)「戸籍・計帳・班田収授法(農地の支給と収容に関する法律)の策定」(第3条)「租税制度の策定」(第4条)であり、詔で定められたもの以外にも、「陵墓の建造規模を身分に合わせて規定」「特定氏族による特定役職の世襲の廃止」「大臣・大連の役職を廃止し左大臣と右大臣を設置」「冠位制度の改定」などの制度が設けられ、初めて「大化」という元号も定められた。

ところが『日本書紀』に記されている改新の詔は、後世になって何らかの手が加えられたとする説があり、その信憑性も怪しいとする。その根拠は、改新の詔には奈良時代の「養老律令」の条文と全く同じであるか、よく似た箇所が見受けられるからだ。

第2条に出てくる「戸籍」「計帳」「班田収授」という言葉は701年に制定された「大宝律令」以前の文書には登場せず、「大化」の後の元号は飛び飛びで定着したのは「大宝」からであり、元号制度が存在したかどうかは不明、などが指摘されている。さらに決定的なのは、詔には行政区画名として「郡」を使っているが、本来は「評」であったことが1967年に藤原京跡から発掘された木簡から明らかとなり、大宝律令成立後に郡が設置されたとする説が有力だ。

これらのことから、大化の改新は実際に行われなかったとする「改新否定論」や、行われたとしても乙巳の変が終わってから徐々に進められたという考え方がある。つまり、乙巳の変は政治改革を前提としたものではなく、あくまでも朝廷内の権力争いであり、そのため645年が大化の改新の年であるという記述は、現在の教科書から削除されたのだ。

中大兄皇子のライバル登場

 
天皇が「大王」と呼ばれていた時代から、皇位の継承に関しては様々な問題が起きている。言い方を変えれば、それだけ天皇という地位に権威があったことになるが、さらにエスカレートしたのは、「乙未の乱」で蘇我氏という実質的な実力者が倒され、「大化の改新」によって天皇親政と中央集権制が、ある程度確立された以降だといえよう。

皇極天皇の後を受けて孝徳天皇が即位するが、在位9年で崩御。その後には皇極天皇が再び皇位につく。

そもそも皇極天皇は、蘇我蝦夷によって担がれた天皇であり、古人大兄皇子が即位するまでの中継ぎだとも考えられている。そのため入鹿も、皇位継承に邪魔な上宮王家を滅ぼしている。すなわち、皇極天皇にとって蘇我氏は強力な後ろ盾であり、それが実の息子のクーデターで失われてしまっては、もはや権威を維持することは難しい。史上初めての譲位には、そんな理由があったといえる。

だが、生前の譲位は異例のことで、原則としての皇位終身制は維持されていた。さらに皇極天皇は退位の後も「皇祖母尊」の称号が与えられている。推古天皇の場合もそうだったが、この頃は女性であっても、それなりの立場であれば地位や権力は保証されたのだ。

皇極天皇は欽明天皇の皇后であり、孝徳天皇の同母姉、さらに中大兄皇子の実母である。その権威の強さは想像に難くない。

このような理由もあり、皇極天皇は、やはり史上初めてとなる重祚(再即位)を果たす。37代斉明天皇である。

父親のみならず母親も天皇になったとなれば、中大兄皇子の皇位継承は、もはやゆるぎのないものとなる。だが、ここに有力なライバルが現れる。孝徳天皇の皇子・有間皇子である。

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