武器を使わない情報戦ープロパガンダ⑯
徹底されたヒトラーによる党大会の演出
硬軟を織り交ぜて人心を掌握
集会には退屈なイメージがつきもので、会社の朝礼、学校の全校集会などに嫌気がさした経験を持つ人は多いだろう。しかし、つまらないはずの集会をエンターテイメント会場に変えたのがヒトラーだ。ヒトラーが、ひとたび演説をすれば聴衆は熱狂し、喝采を送る。その様子は、いまも映像に残されている。
たしかにヒトラーは、演説上手でカリスマ性にもあふれていた。それでも、彼が人々を魅了したのは口先だけの賜物ではない。そこには計算された会場演出が隠されていたのだ。
演説が行われるのは、おもにナチスの集会や党大会だ。なかでも1923年から38年までに行なわれた党大会は、ナチスとドイツ国民の結束を促す一大事業である。
33年から使用されたニュルンベルク会場の敷地面積は約11平方キロメートルにもなり、参加者も数十万人規模。それほどまでの大規模集会となれば、言葉だけで聴衆を引きつけるのは不可能だ。そこでヒトラーは、演説のメッセージ性より会場の雰囲気で人々の心をつかもうとしたのである。
まず党大会の会場では、さまざまなイベントを催して参加者を楽しませた。大会後半の軍事パレードでは、大勢の軍人で力強さをアピールしつつ、少女の行進を混ぜることで堅苦しさを緩和。映画の上映会や花火によって、フェスティバルのような雰囲気を実現し、メインイベントの総統演説では、巨大な大理石製の演壇と党旗が見るものを圧倒した。
雰囲気に酔わされてしまう聴衆
演説の多くは、夕暮れ時に開始された。朝や昼間は頭が冴えているので、話の穴や論理の破綻に気づかれやすい。実際、ヒトラーが駆け出し時代に朝の集会で失言したところ、すぐに聴衆は気づき氷のような視線を送ってきたという。そのため、人の判断力が鈍りやすい夕方から夜間に行うことを好んでいた。
また、人が光のあるほうを見やすい習性を利用して、夕陽やサーチライトを背に立つ手法を多用。さらに、自身の登場方法にも工夫がなされた。
ヒトラーが演壇に登る際、よく用いたのが焦らしのテクニックだ。すぐに現れず、場の空気だけを徐々に盛りあげるのだ。
まず開始時刻になると、120本ものサーチライトが空と演壇を照らし、軍楽隊が壮大な音楽と合唱で場を盛りあげる。そして、事前に雇った「サクラ」によるシュプレヒコールがはじまり、一般聴衆もつられて「ハイルコール」を叫びだす。
そのまま前座にあたる補助演説家が短い演説を行うなかで、聴衆は総統の登場を今か今かと待ちわびる。場の空気が最高潮に達した瞬間、ヒトラーが演壇に登場するのである。
ヒトラーが進む通路の両脇には、必ず親衛隊が整列していた。役割は当然のごとく護衛だが、長身かつ容姿も端麗な彼らを並べることで、守られるヒトラーをより「凄い人物」に見せることも狙いだった。
同調圧力を利用した一大イベント
政権掌握前より、ヒトラーは演劇の研究に余念がなかった。自室に鏡を置いて、有名俳優の身振り手振りをひたすら真似したほどだ。さらに彼は、趣味のオペラ鑑賞から発想を受け、政治集会にショー的要素を取り込んだ。演説会場を単なる意思表明ではなく、大衆を扇動するための集団洗脳の場とするためである。
その準備にも余念がなく、ときどきヒトラーみずからが音響を調節することもあったという。演説に対する熱意の表れといっていいだろう。
「(大勢に取り囲まれた)その人間は、我々が集団催眠と呼ぶ魔術的な影響に圧倒されてしまうだろう」
ヒトラー自身がそう語ったように、人間は同調圧力に弱く、熱狂的な雰囲気には簡単に影響を受けてしまう。会場や他の聴衆達の熱狂を見ていると、次第に自分にも熱情が移っていく。それは現代のライブコンサートでもよくある光景だ。
ヒトラーの場合も、演説と演出が作り出す熱意を聴衆に伝え、その熱意に聴衆が酔いしれる構図となっていた。その熱狂のなかで、ヒトラーへの信奉を植えつけられ、無意識のうちに「偉大な指導者」と思い込むようになっていく。いわばナチスの演説会場は、総統のお言葉を享受する場でありつつも、高揚感を楽しむための一大イベントでもあった。
エンターテイメントすら扇動に利用するという、ナチスの恐ろしさの表れであるともいえよう。
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