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なんとかおわった「自由研究」|はじまりの戦後新教育の頃へ

夏休みもおわりました。娘(小3)の宿題も提出日前夜なんとか完成。ドリルに習字に絵日記に…。そして最大の難関が「自由研究」でした。ネタを決定するのに時間をとられて最後はドタバタでした。

理科あるいは社会科に関連した「自由研究」をやっつけないといけなかったのですが、そもそも「自由」に課題を設定し、「研究」的アプローチをとる課題を、おうちの人とがんばってねってなかなかの無茶振りでは中廊下。。

というか、そもそも「自由研究」って戦後新教育スタート時の目玉企画として登場したあれじゃないの?ということで「自由研究」のはじまりにクルクルバビンチョしてみましょう。

昭和22年「自由研究」登場

ここは今から74年前の1947年。戦後新教育のスタートをかざる昭和22年度『学習指導要領・一般篇(試案)』(文部省、1947)が出されました(図1)。

図1

図1 『学習指導要領・一般篇(試案)昭和二十二年度』文部省

そこで新しく登場した教科が3つあります。一つは「従来の修身・公民・地理・歴史」を統合した社会科、次に女子のみの家事科から男女ともとなった家庭科、そして3つ目が「自由研究」デス。

そもそも「自由研究」とはなにか? 学習指導要領ではこう説明されています。

教科の学習は、いずれも児童の自発的な活動を誘って、これによって学習がすすめられるようにして行くことを求めている。そういう場合に、児童の個性によっては,その活動が次の活動を生んで、一定の学習時間では、その活動の要求を満足させることができないようになる場合が出て来るだろう。

たとえば「音楽で器楽を学んだ児童が、もっと器楽を深くやってみたいと要求するようなことが起る」場合とかがそう。その場合、家庭に帰ってその活動を営んだり、学校で放課後に取り組むこともあるだろう、と。それにつづけて「しかし」と言葉が継がれます。

しかし、そのような場合に、児童がひとりでその活動によって学んで行くことが、なんのさしさわりがないばかりか、その方が学習の進められるのにも適当だということもあろうが、時としては、活動の誘導、すなわち、指導が必要な場合もあろう。

「指導」が必要だからこそ「自由研究」という教科の枠を設け時間を確保しなきゃいけない。「何かの時間をおいて、児童の活動をのばし、学習を深く進めることが望ましいのである。ここに、自由研究の時間のおかれる理由がある」と。

「自由研究」での「指導」の例も紹介されています。

たとえば、鉛筆やペンで文字の書き方を習っている児童のなかに、毛筆で文字を書くことに興味を持ち、これを学びたい児童があったとすれば、そういう児童には自由研究として書道を学ばせ、教師が特に書道について指導するようにしたい。つまり、児童の個性の赴くところに従って、それを伸ばして行くことに、この時間を用いて行きたいのである。だから、もちろん、どの児童も同じことを学ぶ時間として、この時間を用いて行くことは避けたい。

工作、理科の実験、書道、絵画などなど各児童の関心が赴くままに多様な活動を行わせ、それを教員は指導する。さらには「学年の区別を去って、同好のものが集まって、教師の指導とともに、上級生の指導もなされ、いっしょになって、その学習を進める組織」もできると言います。これがクラブ活動。既存のクラブを選択するのではなく、同じ関心をもつ児童が自主的にあつまって形成されるのが本義だったことがわかります。

バーバパパの「自由研究」実践

「音楽で器楽を学んだ児童が、もっと器楽を深くやってみたいと要求するようなことが起る」ことからはじまる「自由研究」と聞くと、思い出すのは絵本バーバパパ・シリーズの一冊『バーバパパのがっこう』(講談社、1976)です。

ピカピカの1年生である近所の双子に付き添ってバーバパパたちは学校を訪れます。ところがその学校はドラマ「スクール・ウォーズ」のオープニングさながらの学級崩壊真っ只中。大暴れする児童、逃げ出す先生、市長や警察も介入する事態に。そんな最悪な事態を好転させるバーバパパ一家の秘策とは、というお話。

バーバパパ一家は、児童ひとりひとりの好きなことを見出していきます。

「いたずらっこどもは、おんがくが すきらしいね。ほら、バーバララとバーバブラボーの おんがくを、よろこんで きいて いる。」バーバパパは、そう きづきました。
(チゾン+テイラー『バーバパパのがっこう』1976年)

先生役となった一家は、これまで同様に、自分の特技を活かしつつ、自分の体を変形させつつ、教育に臨みます。

学校の敷地内では、ダンス、建築、工作、農業、電気、農耕、自然観察、図工、陶芸、体操、国語などなど多種多様な活動が展開されていきます。大人たちはびっくりします。「バーバパパの学校は大成功だ!」。

さて、この学校、結局、子どもたちは遊んでるだけじゃないの?と疑問をもたれるかもしれません。でも、お話の終盤で登場する「国語」と「算数」のシーンで、そうではないことがわかります。自分たちの好きなことを見出し、存分に活動した上で、生徒たちは皆で「国語」や「算数」を学ぶのです。学ぶための姿勢が醸成されているんですね。

授業方法もユニークです。文学少女バーバリブが担当する「国語」には決まった教科書がありません。自分が好きな本を選べます。「算数」には学校を逃げ出した先生が現場復帰して教えています。以前と違うのは「楽しく教える」ことを重視すること。体を動かしながら算数ゲームに取り組み、数え方の練習です。

物語の最後は1年の締めくくりにお祝い会。学んだことをお披露目して、ご褒美もゲット。物語はこう締めくくられます。

こどもたちは、がっこうで、たくさんのいろんな ことを べんきょうしました。だけど、なによりも すばらしいのは、みんなみんな、たのしく しあわせに やって いると いう ことです。
(チゾン+テイラー『バーバパパのがっこう』1976年)

それぞれの個性を大切にするバーバパパ一家は、教育の現場においても、児童それぞれの個性を大切にしていきます。戦後新教育にて登場した「自由研究」と絵本『バーバパパのがっこう』が似ている問題。ためしに昭和22年度の『学習指導要領』を方向づけた「新教育指針」(1946年)も見てみましょう。

「新教育指針」の第一部後編第一章に掲げられた「個性尊重の教育」をためしに抜き出してみます。

一、教育は何ゆえ個性の完成を目的とするか
(1)個性の完成は、人生の目的にかなった幸福なものとする。
(2)個性の完成は、社会の連帯性を強め協同生活をうながす。
(3)個性の完成は、社会の進歩をうながす。
二、教育方法において、個性を尊重するにはどうすればよいか
(1)生徒の自己表現を重んずること。
(2)生徒の個性を調べること。
(3)教材の性質や分量を個性に合わせるように工夫すること。
(4)学習及び生活訓練において個性を重んずること。
(5)進学や就職の指導に個性を重んずること。
(文部省「新教育指針」1946年)

なるほどなるほど。学級崩壊した学校で、最初にバーバパパたちがやったのは「生徒の個性を調べること」でした。バーバララの国語の授業では「教材の性質や分量を個性に合わせる」ことが実践されていました。なるほどたしかにこれは魅力的な教育です。

「自由研究」の退場と復活

さてさて、昭和26年改訂『学習指導要領・一般編(試案)』(文部省、1951)になると「自由研究」の時間がなくなってしまいます(図2)。

学習指導要領一般編(試案)S26

図2 『学習指導要領・一般編(試案)昭和二十六年度』文部省

どうやら「自由研究」という新しい教育スタイルに教員が対応しきれなかったのが大きな要因だったようです。皆がバーバパパになれるわけではない。戦後新教育はその理念の立派さに対して、現場での落とし込みがうまくいかないまま失調していった経緯があります(※)。

「自由研究」がなくなった理由について、指導要領ではこう説明されています。あくまで発展的に解消するのだと言います。

ここに示唆された『教科とその時間配当表』には従来あった自由研究がなくなっている。(中略)自由研究として強調された個人の興味と能力に応じた自由な学習は、各教科の学習指導法の進歩とともにかなりにまで各教科の学習の時間内にその目的を果すことができるようになったし、またそのようにすることが教育的に健全な考え方であるといえる。そうだとすれば、このために特別な時間を設ける必要はなくなる。

この昭和26年度の学習指導要領は、いわゆる「生活単元学習」がより推し進められたものとして知られます。いってみれば「自由研究」がなくなったというよりも、各科目が多分に自由研究化したと見なすこともできるでしょう。一方で「自由研究」の時間をなくした上で推進されたものがあります。

現に学校が実施しており、また実施すべきであると思われる教育活動としては、児童全体の集会、児童の種々な委員会・遠足・学芸会・展覧会・音楽会・自由な読書・いろいろなクラブ活動等がある。これらは教育的に価値があり、こどもの社会的、情緒的、知的、身体的発達に寄与するものであるから、教育課程のうちに正当な位置をもつべきである。

委員会とかクラブ活動の増強がここにはじまるのです。戦時中の軍隊的文化への忌避感情もあって児童の主体的な学習が推進された「自由研究」の仕組みから、ふたたび規律訓練型のクラブ活動へと変容していくクラブ活動が登場していくるのはなんとも興味深いです。

この昭和22年度から26年度への学習指導要領改訂で消えた「自由研究」については、下記のリンクの記事(「昭和22~25年の「自由研究」は、教科のひとつだった!?」ベネッセ教育情報サイト)にも書かれています。

記事の性格上とってもソフトにまとめられてて、あえて本質的な問題は避けられています。昭和26年の学習指導要領改訂で「自由研究」がなくなって以降、なにがどうなって夏休みの宿題に「自由研究」が復活したのかもわかりません。その謎を解くべく一体どの時代にクルクルバビンチョしたらいいのか。少なくとも学習指導要領には以降、登場しません。

ベネッセの記事にもあるように「お子さまの興味や能力に応じた事柄を、ふだんの学校での学習内容にとらわれず、自由に経験・実践する」ことには意義があるでしょう。ただ、もともと「自由研究」に組み込まれていた児童の活動をのばし、学習を深く進めるための「指導」が、教員の手から離れ、各家庭にゆだねられていることはやはり気になります。

あるいはこんな記事も。

戦後教育のスタート時に教員がその時間をもてあまして手放さざるをえなかった「自由研究」を、はたして各家庭が担えるのかどうか。もちろんガッツリとわが子の「指導」を買って出る保護者もいることでしょう。教えたくても「自由」に課題を設定し「研究」するなんてどうしたらよいかわからずに子とともに右往左往するケースもあるでしょう。あるいはマニュアル本をもとにお茶を濁すことだって。

そこには、戦後新教育、生活単元学習が結果的に児童間の格差を生んでしまった失敗をくりかえしつつ、さらに家庭内教育力の格差まで取り込んでいくことにもなりかねません。自分が小さいころを思い出してみても、ただこなすだけの「自由研究」になってたなぁ、と思います。家庭での「指導」によっては、学びが作業になってしまう。

「自由研究」自体はすばらしい。よりハッピーな「自由研究」を模索するためにも、昭和26年度に消えたはずの「自由研究」がどういう経緯で(しかもこんな形式で)復活してきたのかを知りたいナ。そんなことに思いをはせる夏休み明けなのでした。

(おわり?つづく?)


※このあたりの経緯は依然、noteに記事を書きました。


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