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77年目の8月、雑誌『生活と住居』創刊号を読む

8月はふたつの原爆忌、そしてお盆と一体になったかのような終戦記念日がたてつづけにあります。あれやこれやの仕事を一旦保留して実家でゴロゴロする「なにもしない」時間を得るせいもあって、戦争のこと、亡くなったひとびとのこと、そしてこれからの平和のことに思いをはせる機会に自然となります。

さて、敗戦の翌1946年2月に創刊された月刊誌に『生活と住居』(誠文堂新光社刊)があります。そこに、若き建築家・内田祥文が寄せた「広島と長崎」が掲載されています。原爆投下から間もない11月に決行した被害調査行について書かれたものです。

新兵器の使用によって未曽有の被害が出た現地の惨状と、それでもそこから再出発しようとする人々の姿に心を揺さぶられた内田は、次のような言葉をつづっています。

「人々はこの荒涼たる大地から立ち上つてこそ、始めて建設の何たるかを知り、幸福の何たるかを味ふことが出来るであらう。」「現実の透徹せる凝視こそは、我々に自信を与へ、我々に勇気を与へ、輝しき未来の生活の基礎と成らねばならぬ」と。

この『生活と住居』創刊号には、ページ一面キノコ雲の写真に「住生活の復興」という特集名があしらわれています。その隣には「“生活と住居”の創刊に寄せて」と題して建築学者・小野薫が文章をつづっています。

二度と禍と過ちをもたらさぬよう「新日本の生活文化」の水準を高めたい。そのためにこの雑誌づくりを引き受けたこと。自分のもとに集う若者たちの発言の場としようと思ったことなどが述べられています。執筆陣が主に東京大学第二工学部コネクションなのもうなづけます。

創刊の辞につづく記事は、というとこんなかんじ。

鳥井(居?)捨蔵「復興建築に関するニ三の考察」
編集部「ここにも生活がある」
「罹災都市応急簡易住宅」
内田祥文「広島と長崎」
高山英華「復興都市計画に就いて」
前川國男「敗戦後の住宅」
羽仁説子「思想しつつ」
高島巌「住宅の問題と子供の取扱ひ方」
清水一「銀座復興のこと」
展望欄
編集後記

最初の文章「復興建築に関する二三の考察」では「都道府県別建物被害表(戸数)」「市制施行地別建物被害表(戸数)」が延々とづづきます。まるで亡くなった人の名前を読み上げるように。次いで「ここにも生活がある」と題したバラック住宅の記録、応急簡易住宅カタログ、高山英華や前川國男らによる敗戦後の都市・住宅ビジョンがつづきます。

実際に地獄を見たひとびとが、なんとか命を持ちながらえて再出発を誓った。今ではなかなか想像するのも難しい当時の空気感がそこには封じ込められています。この創刊号が刊行された翌3月に「広島と長崎」を書いた内田祥文は過労がたたって亡くなりました。享年32歳。彼もまた戦争の犠牲者だった。

あれから77年たったいま、内田が広島と長崎の調査行から衝撃を受けてつづった「荒涼とした大地」も「現実の透徹せる凝視」も、もはや十分には想像できない景色です。にもかかわらず、というか、だからこそ、少しでもその景色を想像する8月にしようと思います。

(おわり)

「8月」の過去note


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