家を買う時代がはじまった頃|1965年「プレハブ住宅は得か損か」を読む
『週刊朝日』1965年10月22日号に「プレハブ住宅は得か損か」と題した記事が掲載されています。ひとびとに「プレハブ住宅」が身近になるキカッケとなった大和ハウス工業「ミゼットハウス」発売から6年。業界初の一戸建てプレハブ住宅、積水ハウス「セキスイハウスA型」(図1)から5年。認知度が高まり、知人・隣人のだれかが実際に建てたゾみたいな普及ぐあいになってきたのが1960年代なかばでした。
図1 セキスイハウスA型(発売当時のリーフレット)
記事はこんな導入ではじまります。
「家を建てるなら絶対プレハブね」「さあどうかな」「ふつうの建築じゃ二月以上かかるし、大工さんの手間賃は高いし、お茶やおやつだって大変よ」「あとが大変だっていうぜ。押入れは少ないし、雨もりするのもあるそうだし」というわけで議論はつきない。そこでお二人に代わって――。
(「プレハブ住宅は得か損か」週刊朝日、1965.10.22)
プレハブ住宅が耳目を集めるなか、「ヨカッタ」という賛辞も聞こえるけど、不具合もあるらしいみたいな話もあったり。そんな状況ゆえに、週刊誌に「得か損か」という記事の需要も生じたのでした。1965年、まだプレハブ住宅が駆け出し時代だった頃のこの記事とその背景を読んでみます。
まだ各社60点、前向き改善を|木村蔵司
『週刊朝日』のこの記事が出る1年ほど前には、『サンデー毎日』1964年5月31日号に、グラビア「静かにふえるプレハブ住宅」と題した記事も掲載されてます(図2)。
図2 静かにふえるプレハブ住宅(サンデー毎日1964.5.31)
記事にはこうあります。
目新しさで話題になったプレハブ住宅が、最近は実用化という点で、また話題になりだした。メーカーが本腰を入れて材質の改善と量産にのりだしたのが大きな原因だろうが、プレハブ住宅は木材と軽量型鋼とコンクリートの規格品をいろいろに組合せてつくるので、そこにいろいろな問題があるようだ。
(「静かにふえるプレハブ住宅」サンデー毎日、1964.5.31)
勝手知ったる木造家屋とはちがう「プレハブ住宅」。それゆえ不安もある。そんな一般大衆の揺れ動く心をとらえた記事なのでした。それは同時に「プレハブ住宅」がもはや無視できなものとして市場に存在感を示していることも意味します。たとえば、主だったプレハブ住宅として、この頃には次のような商品が続々と投入されています。
1959 ミゼットハウス(大和ハウス工業)
1960 セキスイハウスA型(積水ハウス)
1960 スーパーミゼットハウス(大和ハウス工業)
1961 セキスイハウスB型(積水ハウス)
1961 松下1号型(ナショナル住宅建材)
1962 ダイワハウスA型(大和ハウス工業)
1962 セキスイハウス2B型(積水ハウス)
1962 三井Uハウス(三井木材工業)
1962 ミサワホーム(ミサワホーム)
1964 三井ハウスHi型(三井木材工業)
1964 ナショナル住宅R型(ナショナル住宅建材)
1965 三井ハウスE型(三井木材工業)
1965 プリンスハウス(日本ホームズ)
1965 セキスイハウスE型(積水ハウス)
1965 セキスイハウスF型(積水ハウス)
1966 ミサワホーム規格型(ミサワホーム)
1966 フリーサイズ片流れ屋根(ミサワホーム)
1966 マイホーム(ミサワホーム)
1966 ナショナル住宅R2N型(ナショナル住宅建材)
1967 フリーサイズ重層屋根(ミサワホーム)
1967 ダイワハウスB型(大和ハウス工業)
1967 ニツセキハウスK型(日積ハウス)
小さな勉強部屋として大衆化した戦後の「プレハブ住宅」も、「工場生産住宅」と呼ばれるようになり種々の改善がほどこされてきました。とはいえ課題はまだまだある。『週刊朝日』の記事「プレハブ住宅は得か損か」で登場する建設省建築研究所の木村蔵司はこう言います。
プレハブがあらゆる点で普通住宅にくらべてよいから誕生したわけではない。必要だからできたのだ。安くて大量の住宅をという住宅政策上の産物なんだ。だから、欠点は山ほどある。点数をつければ各社とも六十点。が、とにかく前向きで、改善しなければならないんだ。
(「プレハブ住宅は得か損か」週刊朝日、1965.10.22)
木村蔵司は建築研究所で軽石コンクリートブロック建築を研究していた人。後に日本工業大学教授になります。石材やブロックは戦災復興時に不燃不朽な建築資材として注目されました。「安くて大量の住宅を」という重要課題に打ち込んできた彼が記事の取材をうけたのは、コンクリートパネル構造によるプレハブ住宅の実験を重ねていた頃。プレハブ住宅がもつ可能性も問題点も知り尽くしていたがゆえのコメントだったことでしょう。
聴診器と木ヅチの建築家|黒川紀章
さて、『週刊朝日』の記事「プレハブ住宅は得か損か」には「あなたにかわって調べてみました」という副題がついてます。それゆえ記事には「聴診器と木ヅチで診断」という見出しでもって、外壁や室内をコツコツ叩きながらプレハブ住宅調査する様子が登場します(図3)。
図3 聴診器と木ズチで診断(週刊朝日1965.10.22)
聴診器をして木ヅチを持つのは建築家・黒川紀章。当時まだ31歳、新進気鋭の建築家でした。記事には「プレハブ住宅建築の専門家」として紹介されています(*1)。
黒川は東大大学院修士課程在籍中の1958年、財団法人住宅研究所の支援を受けてソ連、ヨーロッパのプレハブ住宅工場を見学、資料も収集して帰ってきました。その成果は『プレファブ住宅:組立式コンクリート住宅』(彰国社、1960)として刊行されました(図4)。
図4 黒川紀章『プレファブ住宅』
さらに『週刊朝日』記事の前年には、評論家・川添登と共著で『プレハブ住宅』(東京中日新聞出版局、1964)も出版(図5)。こうした業績からも「プレハブ住宅建築の専門家」という肩書を得たのでしょう。
図5 川添登・黒川紀章『プレハブ住宅』
「聴診器と木ヅチで診断」というちょっとあやしい演出のもと、現状の問題点を指摘しつつも、その大いなる可能性を説く建築家・黒川紀章。国際情報社の月刊誌『家庭全科』1964年8、9月の2号にわたって掲載された「住まいのヒント:工場でつくられる住宅」にも黒川によるプレハブ住宅解説が付されています。たとえばこう説いています。
住宅の部品が工場生産されるわけですから、今まで不動産といわれて来た建築も、耐久消費財として動産化されつつあるわけです。
私たちの住まいにしても、私たちの生活する都市にしても、実際には、毎日毎日新陳代謝し、動き、変化し、生長していく「生きもの」です。
(中略)
プレハブ住宅は、部品のとりかえ、増築しやすいという点で、新陳代謝が可能な新しい住宅、新しい生活を可能にするでしょう。
(「プレハブ住宅」家庭全科、1964年8月号)
「耐久消費財」としての住宅。「新陳代謝」が可能なプレハブ。翌月号でも海外のプレハブ住宅事例を紹介しつつ、こう語ります。
従来の一品生産の住宅と違って、耐久消費財としてのアフター・サービスがあってこそ部品の下取り、交換も可能というものです。各社とも巡回サービス班をつくったり、アフター・サービス相談係をつくっていますが、具体的なアフター・サービスの内容を聞いておく必要があります。
いずれにしてもプレハブ住宅は、まだ日本で生まれたばかりの赤ん坊のようなものです。将来は立派な青年となって両親を安心させてくれるに違いありませんから、消費者側がその気になって注目し、育てなけらばならないと思います。
(「これから育てるプレハブ住宅」家庭全科、1964年9月号)
当時まだ自著『都市デザイン』(紀伊国屋書店、1965)や『行動建築論:メタボリズムの美学』(彰国社、1967)を発表する前、実作「中銀カプセルタワービル」(1972)はもちろん、大阪万博の「東芝IHI館」や「タカラビューティリオン」(1970)を設計する前です。いわば、黒川は世間で注目を集めつつあった「プレハブ住宅」をネタに、自分自身の未来志向な「新陳代謝」建築論をプロモーションしたのでしょう(*2)。その情報発信のためには「聴診器と木ヅチ」を持つこともいとわなかった。
それは、まだ駆け出し時代の建築家ル・コルビュジエが、船や自動車を自説に引き寄せながら、先鋭的なマニュフェストを雑誌に投稿していたことを連想させます。あるいは師・丹下健三が「新しい芸術家としての建築家」像をメディア発信した戦略からバージョンアップした「『スター文化人』としての建築家」の振る舞いだったのでしょう。
黒川は新進気鋭の建築家として確かな実力を発揮し、公共建築から都市計画に至るまで次々とその手腕を発揮した。その一方で、彼はメディアを賑わせ、作家や評論家、映画監督、画家や音楽家などと並んで「有名性」を獲得した建築家となったのである。
(松村淳『建築家として生きる』晃洋書房、2021)
率先して専門誌はもちろん、婦人雑誌から男性向け週刊誌まで多方面のメディアに登場する黒川。それは「建築家界内部での卓越化のためではなく、有名性を掛け金にできる他の『界』(芸能界・経済界等)における卓越化のゲームに参戦するため」(松村)でした。
黒川のメディア露出は『女性自身』や『平凡パンチ』といった雑誌へも拡張されていきます。「聴診器と木ズチ」を持った4年後の「平凡パンチ」(1969年3月24日号)には「日本のパワーエリート」「世界を駆けめぐる一匹の豹」として紹介されるようになるのです。
住宅が買いものになる|吉沢久子
建築家・黒川紀章が「聴診器と木ヅチ」で住宅診断する「プレハブ住宅は得か損か」(週刊朝日、1965年10月22日号)には、もう一人の専門家が、プレハブ住宅を「あなたにかわって調べて」います。それは家事評論家・吉沢久子。
吉沢久子は1918年生まれ。評論家・古谷綱武と結婚し、家事評論家(その後、生活評論家へ)として活躍した人物。101歳で亡くなるまで生涯現役で活躍し、著書もたくさん(ありすぎ)。そんな吉沢が「木造プレハブのWさん宅」と「軽量鉄骨プレハブのTさん宅」を訪問し、住宅診断を行います(図6)。
図6 吉沢久子の住宅診断(週刊朝日1965.10.22)
「木造プレハブ」は掲載写真から推測してミサワホームの木質パネル工法住宅「フリーサイズ」と思われます。こっちはプレハブといえども自由設計。一方で「軽量鉄骨プレハブ」は積水ハウスの規格型住宅。記事にて「入居してから五カ月」とあるので「セキスイハウスB型」と推測されます(まだE型は発売されたばかり)。間取りや日当たり、雨漏り等の不具合についてアドバイスしています。
ところで、吉沢久子が記事「プレハブ住宅は得か損か」に登場したのには理由があります。それは、吉沢の自宅がそもそも積水ハウスのプレハブ住宅だったから。「三年前からプレハブ住宅に住み…」とあるので1962年に購入したことに。ということは「セキスイハウスB型」のはず。後年に雑誌記事などで自邸がチラ見えしてる写真をみると、たしかに「B型」の屋根や窓。
ただ、晩年に出版された本(たとえば『今日を限りに生きる』『明日も前へ』『吉沢久子97歳のおいしい台所史』)では「鉄筋プレハブ第1号」と書かれています。これは間違い。まず「鉄筋プレハブ」ってせめて「鉄骨プレハブ」でしょうし、積水ハウスにとって「B型」は「第1号」ではない。たぶん「最初期の鉄骨系プレハブ住宅」という話がたびたび語っているうちに変化したのだと思われます。このあたりは編集担当さんにがんばってほしかった。。。
戦後すぐ、吉沢は建築家・浜口ミホの著書『日本住宅の封建性』に共感して浜口に小住宅を設計してもらっています(図7)。でも、その合理主義は吉沢にはしっくりこなかったよう。
図7 浜口ミホ『日本住宅の封建性』
その後、プレハブ住宅のはしりである「セキスイハウスB型」を購入。さらに勉強部屋(ミゼットハウス?)も買ったそう。なぜプレハブ住宅を選んだのか。吉沢はこう言います。
「これからは家が買いものになるのか」 ドイツやアメリカに続いて、日本にもプレハブ住宅というものが出はじめた1960年頃、私は東京・晴海あたりの展示場にそれを見にいき、一種の衝撃を覚えました。
それまで、家屋というものは何ヵ月もかけて更地に一から組みあげていくものでした。ところがプレハブ住宅はご存知のとおり、すでにできているパーツをトラックで運びこんで現場で組み立てるというもの。「家を建てる」というよりは「家を買ってくる」という感覚です。
(『今日を限りに生きる』p.40)
「晴海あたりの展示場」とは東京晴海にあったプレハブ住宅展示場のこと。そこで開催された「東京国際見本市」では1961年に積水ハウスの「A型」も出展されています。当時の皇太子(現・上皇さま)も見学されたそう。ひょっとしたら、その「A型=鉄筋プレハブ第1号」を見た衝撃から「ほとんど衝動的」に同年に発売開始された「セキスイハウスB型」の購入を決めたのかも?
プレハブ住宅の駆け出し時代に、しかも家事評論家である吉沢が、あえてプレハブ住宅を購入した。そのことに興味をもった「プレハブ住宅建築の専門家・黒川紀章」が古谷・吉沢邸を訪問したのだそう。
ある日、黒川紀章さんを連れてこられて、『どうしてこういうのを買ったのか』というインタビューを受けたことがあります。家は、これから人気の買い物になるだろうと思うし、自分の仕事として建ててみたかった、といろいろと話をしました。それに、今、大工さんも少ないし、修理することが大変なので、こういうプレハブができたら、プレハブ修理会社もできて、便利になると思うと私は言いました。
(『吉沢久子97歳のおいしい台所史』p.209)
この「プレハブ住宅」の可能性を見事におさえた吉沢の購入動機を聞いた黒川紀章は感嘆します。「そうしたら紀章さんは、『よく分かっているようなので、言うことないや、さよなら』と、帰ってしまいました」と記しています。
「よく分かっている」という黒川の発言がどれくらい彼のプレハブ住宅観に沿ったものなのかわかりませんが、すくなくとも意気投合したわけではなさそうです。そんなカングリー精神を刺激するのが、この訪問エピソードの別バージョンでの語りです。吉沢は別の本では、この日の訪問を少し違ったニュアンスで書いているのです。
『これからは住宅が買いものになるならおもしろいから、ちょっと買ってみようかと思って。でも、いつどうなるかわからないし、ほんの買いものです』と私。そうしたら黒川さんが笑いだしてしまって、『いうことないや』といって帰っていかれました。おもしろい方でしたね、あの方も。
(『今日を限りに生きる。』p.41)
こっちのほうはずいぶん互いにアッサリしたやりとり(*3)。なにはともあれ、吉沢の「プレハブ住宅」購入は、来るべき高度消費社会への転換点として「プレハブ住宅」の可能性を見通した上で、住宅取得の大転換を実証実験しようとしたものでした。それを吉沢は「ちょっと買ってみようかと思って」と言ってのけます。
後に吉沢は浜口ミホのパートナー・浜口隆一に仲介してもらい、百貨店での商品相談をうける仕事をスタートします。百貨店のクレーム処理係ではなく、同じ消費者としての立場で商品を説明する、場合によっては認識を正すことで神様としてのお客様ではなく「賢い消費者」を育成しようとしたのです。「商品」としての住宅、「消費者」としての施主。そこに新しい住宅、家づくり像を吉沢は見たのでした。この視点を黒川がどこまで共有できたのかは要検討です。
さて脱線しまくりましたが(というかある意味で全編にわたり脱線ですが)、記事中で吉沢は最後にこう評しています。
プレハブを建築するときは大工さんにお茶やお菓子を出したり、上棟式をあげたり人間関係のわずらわしさはあまりありませんが、建ててからが問題です。アフターサービスはもっと充実する必要があるでしょう。
(「プレハブ住宅は得か損か」週刊朝日、1965.10.22)
そしてこう言葉を継ぎます。「結論として現状ではふつうの木造とくらべて、プレハブに軍配をあげるところまではまだいっていない」と。
1965年、プレハブ住宅の社会受容が急速に進むなか、その後に社会問題化する欠陥プレハブ問題を予見する吉沢評といえます。
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まだまだ「六十点」ゆえ「前向きで、改善しなければならない」プレハブ住宅。「消費者側がその気になって注目し、育てなけらばならない」。プレハブ住宅を育てるためには、そもそも「賢い消費者」の育みが重要だ。木村蔵司、黒川紀章、吉沢久子の3氏はそう語ります。
その後、進展する住宅の「商品化」は、まさに「賢い消費者」から正しく選択してもらえるように整備されていった動きと不可分ですし、住まい方や家の補修までをもアフター・メンテナンスという名のもとに「商品化」していった動きでした。同時に、黒川紀章が巧みなメディア戦略でもって「卓越化のゲーム」に参戦していったように、住宅産業「界」もまた「卓越化のゲーム」に突入していったのが住宅「商品化」時代でもあります。
戦後史のなかで住宅の「商品化」が担った文脈とその萌芽をうかがえる『週刊朝日』記事「プレハブ住宅は得か損か」なのでした。
(おわり)
註
*1 黒川紀章が登場した『週刊朝日』1965年10月22日号には、建築学者・西山夘三の連載「住いの相談室」(第8回)が掲載されています。毎回、読者から寄せられた相談を、西山が実際の改善案もまじえて回答・解説するもの。ちなみに、黒川紀章が京都大学時代に師事したのも西山夘三だった。
*2 黒川は「プレハブ住宅は得か損か」の前年、サンケイ新聞1964年10月2日号に「これからの住まい」と題してこう述べています。「現在のプレハブ住宅は、まだ量産による”ローコスト・ハウス”の域をでていないものが多い。が、そもそも住宅は家族構成の変化によって成長や変化の必要のあるものだから、部品化され、組み立てによる増改築のおとくいなプレハブ住宅は『成長する住まい』として、人気がでることだろう。(中略)住まいの質とは、大きさや見かけばかりではない。生活に合わせて住まいをかえたり移動するという新しい生活様式が、プレハブ住宅の進歩によって可能になるわけだ」と(黒川『メタボリズムの発想』、pp.270-271)。
*3 吉沢は1964年に黒川紀章と川添登の共著『プレハブ住宅』(東京中日新聞出版局、1964)の書評「成長する住宅:一歩前進した本『プレハブ住宅』について」を『新刊展望』(1964年9月号)に書いています。「これからの私たちの住宅のあり方、住む姿勢、市販住宅の知識などが具体的にまとめられており、いままでのハウ・ツーもの、いわゆる『いかにして今の生活を改善するか』というものから一歩前進した貴重な本といえます」と指摘している。「市販住宅」という言葉に注目。
参考文献
・黒川紀章『プレファブ住宅:組立式コンクリート住宅』、彰国社、1960年
・川添登、黒川紀章『プレハブ住宅』、東京中日新聞出版局、1964年
・黒川紀章『メタボリズムの発想』、白馬出版、1972年
・吉沢久子『明日も前へ:歳を重ねても楽しいことがいっぱいある』、PHP研究所、2014年
・吉沢久子『今日を限りに生きる。:人間、明日のことはわからない』、さくら舎、2015年
・吉沢久子『吉沢久子97歳のおいしい台所史:大正・昭和・平成をかけぬけた半生』、集英社、2015年
・松村淳『建築家として生きる:職業としての建築家の社会学』、晃洋書房、 2021年
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