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ペンより先に、剣によって救われた。

壮絶な自己否定感に襲われてしまった、囚われてしまった時、自分で自分を救えなくなってしまう時、が誰しもある。

僕の原体験は"心がない"と言われた時だ。

『お前の振るう剣には心がない。形ばっかり。振るう力にも心がない。よく見せようと、そればっかり』

当時中学1年のクソガキだったから、ふざけんなと吐き捨ててはいたけど、今ならわかる。錬士7段の放つ言葉だ。嘘な訳がない。

強烈な闇がその時に出来た。心を持って振るっていたはずの一撃が、根底から覆された。そして、その預言から数年経て、僕は暴力を肯定してしまった。本当に、心を捨てることになった。突き通された気持ちの穴は、底なしだった。そこから救われる事を望んだが、未だ完結しない。

こういう、ひどく落ち込んだ思いを救いに来るのは、多くの場合、誰かの言葉、なのだと思う。もっと直截に言えば"愛"とか"思いやり"なのだと思う。

しかし、真っ先に救いに来たのは"剣"であり"武"であった。
それは単純な暴力ではない。

徹底的に暴力を求め、技を極め、その力を持って、暴力を振るわぬと言いのけること。
それを安易に放つものを、精神の力で受け入れ、矛を納めること。

思春期に狂ったように読み耽った、剣豪たちの生き方、流派の最終地点を知って、気づく。簡単に言ってしまえば、『無刀』だ。
手っ取り早く知りたければ『バガボンド』を読むといい。
兎にも角にも、武芸百般の極致とは"もはや剣すら持たぬ事"なのである。
僕が強烈に自己否定感に襲われ、真っ先に手に取ったのは誰かの手でもなく、自己肯定するためのペンでもなく、己に向いた矛を収めるための"剣"であった。

達人でも何でもない。剣の道に長けた人は他にいくらでもいる。だから武芸の達人が語る話ではない。
そして、その当時、己に向かう槍が収まったわけではないし、今でも収まってはいない。だから無刀ではない。身体に、力を組み込まなければ、抑えられないと知っただけ。

いつしか、自己肯定をしなければならなくなった。それは時代の流れでもあったし、よくありがちな、進路について迷ったその中でかもしれない。兎にも角にも、自己肯定をして、自身の望みを言わなければ、何一つ進まないそんなポイントに差し掛かった。その時に手に取ったのは、思考を放出するためのペンだった。放出は甘美で、心地が良く、おそらくどこかにいるであろう読者の為に書く事は、素敵な響きを持って現れた。面白いと、感動したという友達もいた。何かを書くことが出来るという自己肯定の仕方は、あまりにも心地よかった。だが何かが違っていた。
各種文学賞に応募したこともある。天狗の鼻をへし折られたのは、全てかすりもしなかったからだけではない。この頃に書いた話は全て、誰かの言葉で、心底にある言葉ではなかった。甘言を持って、自分の心を美談に書き換えようとしていた。つまらぬ試みだった。そしてその筆は当たり前のように折れた。

"武"と"文"それらはいつまでもくるくるとある時期、ある時期に代わる代わる現れては消え、永遠に交わらない親友のような関係のように思えた。

そして今、沢山の記事を書くようになって、僕は両方を持つようになった。"武"は身体性に置き換わり、感覚を突き詰め、感情、をアップデートしてくれた。それが"描写"に焼き付く。
"型"が自然に触れ、不具合が解放される。削られた触覚が、筆圧にしっかりかかる。そして、描ける文章と折って捨てるべき文章の区別が分かってきた。
かつて、心がないと言われた手は、無を掴んだ。

夜は、黒ではない。濃紺でもあるし、深緑色でもある。夜は風でもあるし、匂いでもある。冷たくもあるし、蒸し暑くもある。
文章に込めるべき心と、それを織り成す文章を捨て、削った指先で書き付ける文章の感触を手にした。

そして今、また"武"を求めている。それは力ではなく、精神性だ。
"武道"とは一種の宗教だ。奥底には高い精神性が眠っている。そしてその言葉は、豊穣だ。独り占めしておこう。
もう一つ"近しい手"に宛てぬ言葉は、峰に心を載せない事は、己の手に余る人々に対する祈りだ。そういう時間があってもいい。
己が手には余る故、人は天に縋る。それを"祈り"という。本当はそれを、もっと肯定してもいい。

"文"と"武"は相反する概念ではない。
"思考"と"身体"は別たれているものではない。
"幸福"と"孤独"はどこかで繋がる。
"有"と"無"に善悪はない。同位置だ。

恐らく、人と違う、なんてことはない。只々すごく単純に"武"が真っ先に自分を救い"読むこと"と"書くこと"があとからやってきた。結果として"精神"から"身体"までとして直接働く間と、その四方の空間内でしか、文章を紡ぐことが出来なくなった。

優しい世界、だとか、愛、だとか、きっとあるのだと思う。もしかしたらそこにいるのかもしれない。
そこから離れた荒野で語る文章は、いつだって、あるがままでしかない。
小難しくも、深いものであるよなぁ。と、一人今日も独行の這入へ。

サポートはお任せ致します。とりあえず時々吠えているので、石でも積んでくれたら良い。