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自ら備わっている仏性を働かせる

人間は、だれしもが「純粋で清浄なるこころ」(仏性、ほとけとしての本性)を持っています。ただし、多くの人が自分が持っている仏性に気づいていないのです。禅宗では、自分の仏性に気づくための修行をしています。また、自分で気づくしかないものなのです。

  [参考: 「修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」と言いますが、悟りは修行しないと現れては来ず、証しないと(悟らないと)仏性は得られないという意味です。道元禅師は、このことを「修証一如(修証一等)と呼んでいます。それが「仏道」だと言っているのです。]

 [注: 禅の世界では、「心」を「しん」と呼びますが、これまでの説明の流れから今回も「こころ」としています。]

自分の仏性に気づいたとき、自ずから受けることになり、それを自受(じじゅ)する(すなわち悟る、見性する)と言います。もう少し詳しく言うと、仏性を自受したら用するようになります。用するとは働くということであり、「用」は「ゆう」と発音します。

  [注: 「ゆう]の発音は古くからある呉音です。仏教の語句は呉音が多く、一部に漢音で発音する場合もあります。]

自受して用いる(働く、作用する)ので、自受用(じじゅゆう)と言います。仏性のままに生きていく、すなわち純粋で清浄なるこころに従って生きていくことを、自受用三昧(じじゅゆうざんまい、または自受用の境界)と呼んでいます。補足しておくと、禅宗では自受したら(悟ったら)、他を教え・指導しなければならないと教えています。他を指導する立場に立つことを他受用と呼ぶのです。

  [参考: 人の心は行動に現れることをもって、「行動は心の窓」と呼びます。]

自受用三昧とは悟りを自ら証悟し(悟り)、自ら受用し、体現することです。自受用三昧になるためには、日本曹洞宗では正しい姿勢での坐禅(端坐参禅)、臨済宗では坐禅と公案(禅問答)の修行をしていくことになります。

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