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自#014|35年間の教職生活にいったんピリオドが打てて、深呼吸をする心の余白ができた(自由note)

すべて立ちすくむものの上に
また横たわるものの上に
降りしきれ雨よ、わけへだてなく
涸れた井戸、踏まれた芝生、こと切れた梢
なお踏み耐える根に・・・(水のいのち)

 夕方、玉川上水沿いの遊歩道を走っていて、いきなり「水の命」の歌詞が浮かび、曲が頭の中で流れました。走っている時、ポツリポツリと、雨が降り出したので、この曲を思い出したんだと推測できます。歌詞の全部は、思い出せず、所々、「?」って感じの空白でした。走っている間中、この歌を、いったい何時、歌ったんだろうと、記憶をたぐり寄せる努力をしていました。合唱祭の課題曲として選ばれそうな曲ではないです。自分のクラスが自由曲で歌ったと云う記憶もないです。結局、走っている時は、思い出せず、自宅に帰って、シャワーを浴びている時に「あっ、大学1年の1学期だ」と、ようやく記憶をたぐり寄せました。

 大学1年の6月下旬に、この曲を歌いました。場所は、大隈小講堂です。その後、一度も歌ってません。この曲を歌ったと云うことも、その後、45年間、忘れ去っていました。別段、封印してたってことではなく、日々、忙しく、慌ただしく過ごしていて、大学1年の最初の頃を、思い出す心のゆとりが、多分、なかったと云うことです。

 私は、大学2年の終わりまで、2年間、早稲田の混声合唱団で、合唱曲を歌っていました。早稲田に進学して、演劇をやるつもりでした。大隈講堂の裏にあるサークルなど、いくつか覗いてみました。私がイメージしていた演劇サークルは、残念ながら一個も存在してませんでした。私がイメージしているようなことをやるのであれば、劇団の研究生を目指さなければいけないと云う簡明な事実を、理解しました。

 劇団の研究生を目指して、その道に進む。これは、間違いなく、人生を棒に振る、王道です。自分の人生を、堂々と棒に振る勇気が、この頃の私にはなくて(まあ、今もないんですが)幾分かは棒に振りつつも、cleverにwiseに生きて行きたいと考えていました。つまり、大学のサークルで、演劇をやるくらいなら、問題なしだったんですが、劇団の研究生を目指すのはNGです。

 突然、目標を失ってしまった私は、勢いで、混声合唱団に入部しました。目的はありました。ミサ曲を歌ってみたかったんです。大学1年の12月、芝の郵便貯金会館で開催された定期演奏会で、ベートーベンでしたが(本当はバッハを歌いたかった)Cミサを歌いました。私のパートはテナー。ミサを歌っている時は、四声のハーモニーに身体がふわっとすくい上げられるような気がして、神が存在すると信じられました。2年の定演では、ミサは歌わなかったので、私が、神の存在を、たとえ短時間であっても、信じたのは、大学1年の12月にミサを歌った、この1回だけです。これは、conversionとは、言えない筈です。

 高校時代、ドストエフスキーに嵌(は)まりました。「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」を読んでいる時、神が存在しないと、この小説は成り立たないと、理知的に分析していました。が、ドストエフスキーの小説の中には、悪魔も存在しています。ドストエフスキー自身「もし悪魔と云うものが存在しなければ、創り出さなければいけない」と、どこかで述べていた筈です。悪魔が存在しなければ、ドストエフスキーのあのゴシックの大伽藍のような、スケールの大きい文学作品は、構築できません。ミサ曲には、悪魔も地獄も登場しません。音楽には、悪を創り出す力はないと、私は、単純に考えています。ワーグナーの大管弦楽などにも、悪の要素はない筈です(が、まあ私はワーグナーの有名な曲のさわりくらいしか聞いたことがありません)。

 大学を卒業してからも、ミサ曲を歌ったことは、しょっちゅう思い出しました。あの瞬間、自分は神を信じていたと云うあの感覚も、ある程度、再現できます。でないと、クリスチャンの生徒と、虚心坦懐に、心の隔てなく、喋ると云ったことはできません。クリスチャンだけでなく、私はどの宗教のどの宗派の人たちとでも、こだわりなく偏見なく、喋れます。それは、神を信じていた瞬間もあったし、菩薩や仏を信じられる瞬間も、経験しているからです。持続しなくても、その瞬間だけでも信じられたら、人間性の本姓に基づく深い教養として、stockできます。

 大学1年生のデビューコンサートのこととか、すっかり忘れていました。思い出せて良かったです。コロナのお陰と云うより、35年間の教職生活にいったんピリオドが打てて、深呼吸をする心の余白ができたと云うことだと想像しています。「水のいのち」と「エーデルワイス」それと「Steet chariot」(これは黒人霊歌です)、タイトルは忘れましたが「ここが美しい、それはここがここだから」と云うオープニングで始まる曲も歌いました。1個思い出せば、やはり芋づる式に出て来るものです。

 ところで、雨の曲。私の世代(つまり中2の時、オリビアハッセーとレナードホワイティングが出演した「ロミオとジュリエット」を彼女or彼氏と見に行ったかもしれない世代。私は一人で行きました。ちなみにレオナルドディカプリオの「ロミジュリ」とかじゃないです)ですと、もう間違いなく、カスケーズの「悲しき雨音」を思い出す筈です。この曲は、私が小1、2くらいの頃の大ヒット曲ですが、中3か、高1くらいまで、梅雨の時期になると、ラジオから流れていました。彼女は、a brand new startを切るために、自分から、さっさと離れて行ったのに、取り残されたさえない自分は、うじうじと彼女のことが、忘れられず、考え続けるって曲想が、まあ、まんま演歌です。日本人に好まれそうな歌詞ですし、曲想です。
「サウンドオブミュージック」の「My favorite song」のオープニングもお洒落な雨でした。今、手元に歌詞はありませんが、Raindrop on roseだった筈です。バラに降りそそぐ雨。去年の秋、年パスを持っている神代植物公園で、Raindrop on roseを見ました。雨が降りそそぐと、バラの香りは、まるで、超一流のバーテンダーさんが作ってくれたマティーニーのように、boy & girlの心に沁みる筈です(まあ、私はboyではないので、想像です)。

 これを読んで下さっているロックなみなさん(いや、ロックじゃなくても、演歌でも浪花節でも、民謡でも、謡いでも、全然、構いません)にとって、雨と云えばやはりGuns N'Rosesの「November Rain」。季節違いとか、そんなことどうでもいいです。

'Cause nothin' lasts foever
Even cold November Rain

この曲は、スタートして6分49秒後から、大サビが始まります。エンディング曲で、この曲を流した時、6分49秒間、ひたすら待ってくれた、少数のみなさんに、あらためて感謝の意を表しておきたいです。

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