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自#127|勢津子おばさんの青春物語~その20~(自由note)

 「『特攻』が生んだ思想とは」と云う記事を読みました。戦局が悪化し始めた頃、海軍はまず回天と云う小型の自爆潜水艦を開発します。開発者の一人、黒木博司中尉は、訓練中に海底に沈んだ回天に閉じ込められて、22歳で殉職。窒息死までの約半日、回転の改良点を指摘したメモや遺書を綴り、回天の内壁に「天皇陛下万歳」と刻んだそうです。

 黒木中尉が師事し、心酔していたのが東京帝国大学の平泉澄(きよし)教授。日本を「神の国」とする皇国史観の当時の第一人者です。

 黒木中尉は、「必死滅賊の実、正に自爆の計にあり。回天救国の道、一に之が採用に在り」と、信じて回天を開発します。黒木中尉の師の平泉澄教授は
「吾々(われわれ)は死んでも宜(よ)い。この戦は現実には勝たなくとも宜い。日本国の為めには、日本国の道徳を確立する為には、何処(どこ)までも吾々は奮闘しなければならぬ」と、語っています。

 当時の状況に自分の身を置いてみると、この言葉は腑に落ちます。井上靖の「氷壁」の主人公は、死ぬと判っていても、登り続けますが、ある意味、それと似ています。たとえ死ぬとしても、前に進んで行く以外に道はないと、(当時の状況に置かれたら)やっぱり普通に考えてしまいそうです。

 海軍の大西中将は、「日本人全部が特攻精神に徹底した時に、神は始めて勝利を授ける。日本人の五分の一が、戦死する以前に、敵の方が先に参る」と、一種の戦術論を述べています。が、特攻で死ぬのは戦術ではなく、特攻死=救国と云うある種の宗教のようなものです。現代の安全で平和な地点から、太平洋戦争と云う狂気を、客観的に分析、批判することは、そもそも無意味だと、私は思っています。

 裏千家の千玄室さん(元家元)のインタビュー記事も読みました。玄室さんは、現在97歳。私は、25、6歳の頃、千玄室さんのお手前を拝見したことがあります。当時は、家元でした。松山だったか、四国のどこかで開催されたイベントで、お見かけしました。97歳の現在のスナップ写真も掲載されていますが、背筋がきちんと伸びて、矍鑠(かくしゃく)とされています。このスナップを見ると、人生百年時代と云う、サプリメントとか健康食品屋とか化粧品業界とかがやっきになって宣伝しているキャッチフレーズが、a little信じられるかも・・・って気もします。

 玄室さんは、同志社大学在学中に、学徒動員で海軍航空隊に入り、特攻隊を志願します。海軍に茶箱を持って行って、配給の羊羹を切って、お茶を点て、戦友たちはそれを飲んで、「うまいなあ。お母さーん」と、故郷の方を向いて叫んだそうです。戦友たちは、一週間後に出撃しました。玄室さんには待機命令が出たそうです。裏千家の次の家元を死なせてはいけないと、もしかしたら、上層部が判断したのかもしれません。玄室さんは、出撃させて下さいと、三度、懇願しますが認めてもらえません。

 今年は戦後75年。沖縄に慰霊に行って来たそうです。「沖縄のどこかの海で、死んでいる筈でした。生き残って忸怩(じくじ)たる思いです」と仰っています。今でも、戦友たちの「お」母さーん」と云う声が、聞こえて来るそうです。「私にとって、戦争は自分が死ぬまでは終わりません」とも語っています。

 私の伯父も特攻隊の生き残りでした。出撃命令は受けていて、上司や戦友と、水杯も交わし、故郷の役場に電話もかかって来ました。いよいよ出撃と云う時は、故郷に電話をかけることが許されていたんです。役場に電話がかかって来て、村のあちこちに据えてあるスピーカーを使って「ニシモリケンイチの父親のトラキチさん、すぐに役場に来て下さい。息子さんから電話がかかっています」と、祖父が呼び出されたそうです(祖母は、その少し前に肺炎で死んでました)。で、ケンイチは、型どおり「お国のために死んで来るきに」と父親に伝え、父親の方も「咲いた花なら散るのは覚悟。立派に死んで来い」と、これまた型通りの挨拶を返したそうです。が、何故か、翌日の出撃は延期になり、もう一日延びて、終戦を迎えました。戦友たちは、立派に死んでいます。伯父にも、内心、忸怩たるものがあった筈です。

 伯父は飲むと、とことん飲んで酔い潰れました。酒しか逃げ場がなかったんだろうと、今の私は思います。生き残った戦友たちの集まりには、毎年、行っていました。会場は、知覧のある鹿児島です。私が高校生くらいの頃、断酒会に入って、アルコールを止めました。ドクターストップがかかったんだろうと想像しています。

 その後、お四国八十八ヶ所巡りや、高野山の巡礼などをしていました。が、いくら酒を止めても、自分自身が死ぬまで、伯父の心の中で、戦争は終わってなかった筈です。

 九州の朝日新聞が、昭和20年4月~7月までの間、月3回出していた防衛新聞の一部が、掲載されていました。防衛新聞が、軍当局の指導の下に、企画・編集・印刷・配布されていたことは、朝日新聞の社史にも記載されてないそうです。なかったことになっていた事実が、古物商のネットオークションで、出て来てしまったわけです。

 本土決戦に向けての覚悟やノウハウなどが、書かれています。沖縄地上戦はもう始まっています(6月に沖縄は陥落します)。次は九州だと危機感を抱いた軍部が、本土決戦に備えて、国民を啓蒙、鼓舞しようとしています。落下傘が、地上に降りて来たら、敵兵に向かって蛸壺壕から手榴弾を投げつけます。それが外れたら、竹槍で突いて、瞬殺します。上陸して来る戦車のための落とし穴も作ります。幅4、5メートル。高さ3、4メートル。と云った風なことが具体的に書かれています。本土決戦があれば、勢津子さんたちだって、蛸壺から手榴弾を投げつけていた筈です。

 戦争が終わって、糧秣廠の残務整理が終わって、別れる時、「こんに風にして負けてくやしかった。こんどは力をたくわえてまた戦争しましょう。その時は皆で再び糧秣廠で会いましょう」と言って、勢津子さんは、泣いたそうです。

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