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自#129|四時の好景を玩ぶ~養生訓その2~(自由note)

 貝原益軒は、筑前の黒田藩の儒者でした。四書五経を読み始めたのは、14歳になってからです。普通は、5、6歳から、論語・孟子の素読を始めます。儒者としては、かなり遅いデビューだと言えます。が、遅かっただけに、ガチガチの型にはまった朱子学者にはならず、医学や道教などの造詣も深い、flexisibleな多様性に富んだ儒者として、独創的な仕事を成し遂げたと言えると思います。

 江戸時代には、林羅山を始め、林鵞峰、山崎闇斎、中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行、伊藤仁斎・・・等々、きら星の如くビッグネームの儒学者たちがいますが、それらの儒学者の著作は、現在、普通の人は誰も読んでません。ビッグネームの儒学者たちの名前すら、現在の細かい知識を問う日本史受験と云うものが、考える問題、発展的な問題に推移してしまえば、たちどころに捨て去られ、忘れられてしまいます。

 貝原益軒の「養生訓」は、講談社学術文庫から現代語訳なども出版されて、今でも読まれていますし、「養生訓」をタネ本にした、長寿を目指す健康指南のマニュアル本は、枚挙にいとまないほど沢山あります。ところで、UKロックですと、オアシスやブラーを聞くよりも、ビートルズを聞いた方が、明らかに手っとり早いです。ただ、オアシスで言えば2枚目の「モーニンググローリー」がブレイクしている頃は、やっぱりオアシスを聞かなきゃダメだと云う風な同調圧力的なものは、確かに存在していました。長寿のための健康指南本に関しては、同調圧力を引き起こすほど、影響力のある著作は存在してません。同じネタを使った、三匹目、四匹目、いや十匹目、二十匹目と云った泥鰌本が、次々に出版されているのが実情です。もっとも、ネットがより一層、使い勝手が良くなれば、こういった泥鰌本は淘汰されます。貝原益軒のオリジナルの「養生訓」は、間違いなく残ります。

「養生訓」の著作権などは存在してませんから、もしかしたら、誰かがオリジナルをネットにupしてたりするのかもしれません。トルストイの「戦争と平和」の読後感を、「象の皮膚をなでているような感じだった」と語った人がいます。登場人物は多く、storyもそれなりに複雑で、読んでいても、何が何だか良く解らないんです。取り敢えず、象の皮膚を全部なでてみたけど、全体像はつかめないままで、一回目の読書が終了してしまいます。「戦争と平和」は、とにかく短期間に一気に読んで(どんなにspeed upしても3日はかかると思います)その後、二回目、三回目と、五周くらいさせれば、象の全体像が判ります。大学1年の夏休みの1ヶ月弱くらいを使って、これをやれば、一気に読書力と読書の習慣をつけることができます。

「戦争と平和」が、巨大な象だとして、ネットには巨大な象が、無数に存在しています。「戦争と平和」を五周させ、ネクステを七周させると云ったオーソドックスなやり方は、ネットには馴染みません。実は、私は、今年度に入って、初めて自ら積極的にネット検索と云うものに、challengeしてみました。わずか数回しか(4回)検索したことがないのに、ネットについて、今、いっぱしなことを語ろうとしています。が、ネットは、自由だし、diversityだし、それに、同調圧力がかかって炎上するほどは、このノートは読まれてないとも想像しています。そもそも、読者を増やそうと云う欲は、さほどなくて、私の文章のスタイルを好んで読んでくれるコアな人だけが、ノートを読んでくれていると推測しています。

 わずか、4回の経験で言い切りますが、ネットの情報に対しては、速いシステムで対処する必要があります。情報を取捨選択するにあたっては、瞬時の決断が必要です。それと、人間が生きている時間は、限られているのに、ネットの大海は無限です。ですから、あらかじめ、制限時間を設定しておくことも必須です。速いシステムを働かせ続けていると、脳はやはり疲れてしまうんです。まあ、個人差はあると思いますが、私の場合、ネットを使うとしても、長くて1時間。せいぜい1つか2つくらいのテーマしか調べませんから、実際は、30分もあれば充分だろうと推定しています。

 モノゴトを考える時は、遅いシステムを働かせます。この遅いシステムを働かせる時は、やはり紙ベースがbetterです。と云うか、私の場合、紙ベースの場合しか、遅いシステムは働きません。ネットの画面上で、遅いシステムを働かせるためには、かなりの訓練が必要で、もう年齢的にそれは難しいと判断しています。が、まあネット検索と云うことを、ようやく始めたわけです。遅すぎるかもしれませんが、貝原益軒が黒田藩を引退して、自分のやりたいことを始めたのは71歳の時です。私は、まだ66歳です(正確に云うと8月25日で、66歳ですが、もう前倒ししておきます)。

「養生訓」の中に、「貧賤に居て貧賤を楽しむ」と云うテーマの一文があります。
「ひとり家に居て、閑(しずか)に日を送り、古書をよみ、古人の詩歌を吟じ、香をたき、古法帖(こほうじょう)を玩(もてあそ)び、山水に臨み、月花をめで、草木を愛し、四時の好景を玩び、酒を微酔に飲み、園菜を煮るも、皆是心を楽しましめ、気を養ふ助なり。貧賤の人も此楽(このたのしみ)つねに得やすし」

 私のような、たいして金も持ってない、やや貧乏な人間の老後の過ごし方について、適切に指南してくれています。お香は、座を組むことがあれば、焚(た)くかもしれません。昔ながらの線香と、坐禅との相性は悪くはないです。酒を微酔に飲むは、今のとこ、予定なしです。ただ、仲のいい腹心の教え子と一緒に、オールドパーの水割りの1、2杯くらいは飲んでみたいと云う欲は、まあまったくない訳でもありません。

 吉祥寺によみた屋と云う古書肆(こしょし)があります。一昨日、ツタヤでDVDを借りたあと、よみた屋に立ち寄りました。ミレニアム(2000年)の頃に出版された定価4万円くらいの歳時記が、1500円で、店頭に出ていました。自宅に本を置くスペースが、もうないので、新しく本を買ったら、何かを捨てなければいけません。「何かを得るためには、何かを失う」は、鋼の錬金術師で、毎回語られているセオリーです。先日、ビデオテープを少し整理したので、歳時記を五冊(春・夏・秋・冬・新年の五冊です)置くくらいのスペースは、たまたま、できていました。速いシステムを働かせて、歳時記を大人買いしました(1500円ですから、大人買いと云うほどの金額でもありませんが)。

 四時の好景を玩ぶためには、歳時記は必須です。私が持っている歳時記は、昭和34年に出版された平凡社(現在のマガジンハウス社)のそれです。もう、時代は令和です。昭和の歳時記だけでは、例句が、やっぱり古すぎるんです。昭和と平成の歳時記を、バランス良く使い分けて、四時の好景を玩ぶつもりです。 

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