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自#084|続・親父の小言解説(自由note)

親父の小言の続きを、もう少し、書いておきます。

 「初心は忘れるな」
 私は、現在、社会科準備室のある学校に勤めています。社会科準備室は、1年生の教室のある4階のフロアーにあります。昨日、男子トイレの鏡の前で、ある男の子が
「自分の斜め後ろの女の子、めっちゃ可愛いんだけど」と洩(も)らすと
「えっ、どの子」「どっち側、窓際?」「あっ、可愛いかも」「次の休み時間、見に行く」などと、一気に4、5人が盛り上がっていました。斜め後ろに可愛い子が来ただけで、happyになれる、確かに、これは高1のstartの頃の初心かもしれません。いや、高3でも、happyになれるのかもしれませんが、男子トイレの鏡の前で、こんな風に盛り上がることは、ないと思います。
 初心と云うものは、相当、努力しても忘れてしまいます。私は、UKロックの「あの感じ」で生徒とも付き合いたいし、学校生活もenjoyしたいと思って、教師になりました。
「演歌じゃダメなんですか?」と、聞かれたことはありませんが、演歌のあの情緒纏綿(じょうちょてんめん)としたノリではありません。coolで、hardで、dryな感じです。初心は、どうしたって忘れますし、いつの間にか砕け散ってしまってたりもしますが、砕け散ったかけらのひとつでも、二つでも、拾い集められるように、毎回、授業の最後にエンディング曲を流しています。UKロックのかけらが、生徒のheartに刺さったと感じる瞬間が、ごくたまにあります。本当にごくたまにです。oftenでもsometimesでもなく、rarelyですが、初心をごく一瞬であっても、取り戻していると、自分では思っています。

 「不吉は言うべからず」
 これは、ネガティブなことを言わないと云うことです。コロナ禍のお陰で、そこら中に、ネガティブが蔓延してしまいました。リーマンショックをはるかに超える大不況だと、新聞に書かれてしまうと、どうしたって、ネガティブな観点で、経済を捉えてしまいます。
事実と価値判断をsetにして、ネガティブな情報に仕立て上げ、それを、次々に繰り出して来ています。事実のデーターを示すことは大切です。が、その事実から割り出し、分析する価値判断は、もっとdiversityに富んでいるべきです。私は、正直、コロナ感染を、最初から今に至るまで、全然、怖れていませんが(そもそも、怖れることがまったく無意味です。感染すれば、その時、適切に対処すればいいだけのことです)私でさえ、怖れているフリをしなければいけない、同調圧力的なものが、そこら中にあふれています。
 私は、ネットの情報には、ほとんどアクセスしません。が、自分自身も今は、ネットを使っていますから、少しは見るようにしています(中原淳先生のブログは読んでいます)。ネットの情報は、正直、玉石混交過ぎます。まあ、それが人間社会と云うものだと、言ってしまえば、それまでなんですが、リテラシー能力が身についてないと、効率悪く、劣化した情報ばかりを、拾ってしまうことになりそうです。だったら、岩波文庫とかを、読んでいた方が、いいかなと、ついつい年寄りは、守りに入ってしまいます。
 今、私は、日本の古典を読んでいますが、古典はやはり、歴史の篩(ふる)いにかけられていますから、玉石混交の「石」の作品は、淘汰されています。
 イスラム教は、コーランを読誦(どくじゅ)することになっています。コーランに限りません。お経だって、基本、読誦です。ユダヤ教徒は、モーセ五書を、毎年、読誦している筈です。クリスチャンは、礼拝に行けば、牧師さんor神父さんが、聖書のフレーズを、声を出して読んでくれます。
 コーランは、倫理の資料集に掲載されている、ごく一部のフレーズしか読んだことが、ありませんが、聖書は旧約、新約の両方とも、ひととおり目を通しています。お経も多少は読みましたし、般若心経くらいは暗唱できます。お経に関しては、声を出して、朗誦すべきものだと、はっきり解ります。教典と云うものは、ネガティブなことは書いてなくて、基本、救われると云う方向のベクトルで、書かれているものです。それを、声に出して読めば、やはり元気になるだろうし、ポジティブで前向きの姿勢になれます。
 今、大活躍している佐藤優さんは、512日間、東京拘置所の独房に拘留されていた時、聖書を読んで、自分を支えていたそうです。確かに、聖書を読んでいる限り、死にたいと云ったネガティブな気持ちには、まず絶対にならないと想像できます。極限状況に置かれたら、救われる「時」と云うものを、信じられるような気がします。
 昔は、論語や孟子の素読が、ベーシックな学習でした。孟子はちょっと難しい部分もありますが、論語は、平易です。深い意味は、解らなくても、声に出して読めば、意味は解ります。論語を暗唱できるくらいまで学習すれば、ネガティブなことを、考えたり、言ったりしないような、抑止力に多分、なるんだろうと思います。もし、教え子が、どういう幼稚園に子供を預ければいいかと、質問して来たら、英語やプログラミングを教えるとこより、論語のように古典を朗唱させる幼稚園の方が、いいんじゃないかと、アドバイスします。そういう幼稚園だって、探せばありそうです。

 「火事は覚悟しておけ」
 これも、若い頃、先輩に結構、聞かされました。で、35歳の時、火事に遭って、レコード3000枚、音響セットなどを含めて、家財道具のすべてを、失いました。小5から、せっせと集めたレコードの3000枚に愛着が、なかったと言ったら嘘になりますが、精神的にダメージを受けたり、ストレスを感じたり、ショックだったりと、そんなことは、一切、ありませんでした。仏教もジャイナ教も、本来、無所有なんです。托鉢修道会を始めた聖フランチェスコも、ドミニコも、本来、無所有を、目指した筈です。ある日、突然、本来、無所有が、襲いかかって来たわけです。何もかも、なくなって、ものすごくすっきりしました。あれが、究極の断捨離だと言えます。日本人ですと、確率的に、生きている間に、一度は、火事や地震、津波などに遭遇します。それは、本来、無所有を、経験できる、絶好のchanceだとも言えます。そこにあると思っているものは、縁に従って、あるように見えているだけで、本来は「空」だと云う、ナーガールジュナの思想も、薄々、解るような気すらします。

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