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自#104|平穏無事で、幸せな時は、人は文章を書こうなどとは普通、考えません。(自由note)

 詩人の伊藤比呂美さんのインタビュー記事を読みました。伊藤比呂美さんは、著名な詩人ですが、詩だけを書いて、それで生計を立てて行くことは難しいと思います。詩だけを書いて、食べている人は、日本には、多分いない筈です。伊藤さんも、大学講師として、早稲田で教えています。伊藤さんは「文学とジェンダー」「短詩型文学論」の二つの座学と、詩と小説の創作のクラスを一つずつ、全部で4つの講座を受け持たれています。コロナの影響で、すべての講義をリモートで実施されています。

 伊藤さんは、現在、熊本にお住まいになっています。対面の授業を実施されていた頃は、月曜日に熊本から東京に移動して、火曜と水曜に授業を行って、木曜日にまた熊本に戻ると云うスケジュールだったそうです。が、リモート授業になったので、移動は不要で、ずっと熊本で生活することができます。毎日、熊本にいるので、スーパーに買い物に行っても「これ腐っちゃうかな」などと、考えずに、自由にいっぱい買えるようになったそうです。

 熊本でも、繁華街のデパートや書店は閉まっていた時機も、あったそうです。伊藤さんがお住まいになっている河原や山のある牧歌的な田舎は、むしろ人が増えていたそうです。詩人ですから、デパートみたいに人が多くなったと、比喩的に仰っています。コロナ禍で、不安だったり、ぎすぎすしたりと云った現象は、伊藤さんがお住まいになっている熊本の田舎では、発生しなかったんだろうと推定できます。

 伊藤さんは、リモート授業を実施するために、仕事がなくなってしまった演劇関係の人を、技術スタッフとして雇います。ゴールデンウィーク明けから始まったリモート授業には、もう、超慣れたそうです。
「ただ、対面しないと、気のやりとりを感じるのが、難しいかもしれない」と、仰っています。さすがは詩人だと、ちょっと意表を突かれました。モニターの画面を通して、気を感じようとする人は、そうめったにはいない筈です。
「文学とジェンダー」「短詩型文学論」は、どちらも300人くらいが、受講しているそうです。うわぁ、相変わらずのマスプロ授業だと、思ってしまいました。この規模ですと、対面よりもリモートの方が、双方のメッセージは、より届き易いような気がします。

 基本、受講生は、マインをオフにしているそうです。300人が勝手に喋ると、収拾がつかなくなります。チャット機能をオンにしておいて「中原中也の詩を読んで、オノマトペがあったら挙げて」と指示すると、「ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよーん」とかと、書き込んで来るそうです。チャットで、次々とメッセージが届いて、それにリアクションしながら、授業をテンポ良く展開するのは、やはり、スキルと熟練が必要です。300人のクラスの受講者がマイクをオンにして、萩原朔太郎の「ふらんすに行きたしと思へども」の詩を、全員で、一斉に朗読したそうです。全員の声が、大きなうねりになって、響いたそうです。これは、これで、ある種のカオスの実体験って感じがします。

 チャットではなく、Q&A機能を使うと、大学院生の助手が、学生からの書き込みを取捨選択して表示できるようです。相手を攻撃して来る意見や、授業の流れに関係ないものは、消して行くことができます。インターネットですから、海外在住の人も、ゲストとして呼ぶことが可能です。ドイツ在住の多和田葉子さんに、講義に参加してもらったこともあるそうです。

 受験生には、授業の感想などを書いてもらって、大学のウェブサイトに送ってもらいます。伊藤先生は、学生の文章をお読みになるわけですが、問題点がひとつあって、伊藤先生は、縦書きじゃないと、読めないそうです。私も、通常、文章は縦書きで読みます。自分の書く文章は横書きですし、このnoteも横書きですが、分量が多くなると、縦書きの方が、より速く、楽に読めます。伊藤さんは、提出された文書ファイルを、エクセル、メモ、ワードとマネーロンダリング(?)みたいなことをしながら、苦労して、縦書きに変換してお読みになるそうです。大量の文章を、当たり前かもしれませんが、モニターの画面で、きっとお読みになっています。

 創作クラスの学生は、コロナになって不安を抱えているので、いいものを書くそうです。平穏無事で、幸せな時は、人は文章を書こうなどとは普通、考えません。作家は、自己の内部に、人為的に不幸せを創出させる、特殊な能力があります。無論、実人生が不幸せだったと云う体験が、ベースになっている方もいます。

 伊藤さんは、詩を読むこと、書くことの大切さについて
「長い人生の中、落ち込むことが、何度かある。その都度、詩を読んだり、書いたりすることが、人生を救う」と、学生に伝えているそうです。

 無論、詩ではなく、歌の歌詞に救われる人もいます。伊藤さんは、歌詞は自分たちの意識のぎりぎりの縁までの言葉で作るもの、詩はそっから先の無意識に踏み込んで行って、言葉を引きずり出して来るものだと、仰っています。「無意識の世界のsomethigは、人類共通のもので、地下水みたいに流れていて、文化も時代も言語も違うのに、みんなが汲み取って飲んで、癒やされるもの」だとも説明されています。

 私も若い頃、普通に詩を読んでいました。まず中原中也と三好達治に嵌まり、萩原朔太郎、室井犀星、北原白秋、高村光太郎、宮沢賢治、等々、メジャーどころは、だいたい読みました。八木重吉も愛読しましたが、キリスト教の世界に、詩を通して接近することは難しいと感じました。大人になってからは、より正確に云うと30歳で教師になってからは、詩を読まなくなりました。若い頃は、詩の断片のような瞬間が、人生の所々にありましたが、大人になると、もうそれはなくなって、散文的な人生になってしまうと云うことなのかもしれません。詩に癒やされなくても、どうにかやって行けるcleverな知恵を身につけたってとこも、多分、あると思います。

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