教#045|我々はどこから来たのか、我々は何か、我々はどこに行くのか~ブルーピリオドを読んで⑯~(たかやんnote)

 芸大の二次試験の直前、八虎はユカ(龍二)と、一緒に海に行きます。私は、海の傍で生まれて、小さい頃は、毎日、海を見て暮らしていました。八虎とユカが、何故、海に行ったのか、理由を考えたりはしません。人が海に行くのは、ごく自然な行動です。ユカは、家庭環境に問題があり、それだけが理由ではありませんが、美大受験はリタイアしています。ユカは、今、人生の割と底の方にいます。そういう若者が海に行くのは、普通にあるあるな選択肢です。海は、人間に較べると、圧倒的に大きな存在です。どれだけ科学文明が進歩しても、海を凌駕し、支配することはできません。そういう人知を越えた、大きな存在に向き合うことは、健康で健全な精神を維持するためにも、時には必要なことです。

 去年、都美術館で開催されたコートールド展のポスターは、マネの「フォリーベルジェールのバー」の絵を使っていました。駅のホームのあちこちで、このポスターを見かけました。新聞の文化欄の記事を読んで、セザンヌの「大きな松のあるサントヴィクトワール山」も展示されていると知って、授業のなかった平日に休暇を取って、コートールド展に出かけました。ブリジストンにある「サントヴィクトワール山とシャトーノワール」は、とにかく、山を取り囲むみどりに圧倒されてしまうんですが、コートールド美術館の「大きな松のあるサントヴィクトワール山」は、構図が巧みで、理知的にまず分析してしまいます。いきなり絵に掴(つか)まれるのではなく、こちらが落ち着いて、coolに絵を掴みに行く、そういう絵です。悪くはないです。そこはやはり、セザンヌです。南仏の空の美しさも、松のみどりも、地中海から吹いて来るであろう風も、ローマ時代に遡る歴史の奥行きも、すべて一枚の絵の中に、表現しています。こういう絵のすぐれたレプリカを、会社の玄関の壁に飾ってあったら、それだけで、私はその会社を、何となく信用してしまいます(受付にいくら高価そうな胡蝶蘭が飾ってあっても、それだけでは、まだちょっとうさんくさい感じがします)。

 新聞の記事を読んで、モネのアルジャントゥイユの紅葉がセーヌ川に映っている絵も、展示されていると知っていました。その他、セザンヌの「カード遊びをする人々」、ルノワールの「桟敷席」、ドガの「舞台上の二人の踊り子」、モディリアニの「裸婦」、ゴーギャンの「ネヴァーモア」等々、どの美術全集にも、掲載されてそうな有名な絵が、沢山、来ています。ここ10年くらいの中で、一番、豪華な展覧会のような気がします。

 事前学習なしで、つまりまったくノーマークで、モネの「アンティーブ」の絵を見ました。描かれているのは松の木、手前の大地、対岸の山々、空、そして地中海の海です。古代ローマ人が、ノストラムマーレと呼んだ、地中海の美しさに魅了されました。ギャラリーに人は、そう多くなかったので、たっぷり15分くらいは、この絵の前に佇んで、眺めていました。江ノ島に行って、海を見るとすれば、自宅から往復4時間くらい移動するのに時間がかかってしまいます。展覧会のすぐれた海の絵を、15分も見ておけば、江ノ島に行かなくても、海のあの感じは、自己の内部で再現できます(まあ、これは、子供の頃、毎日、海を見ていたと言う貯金があるからですが)。この絵に出会っただけでも、お得感いっぱいのコートールド展でした。去年のその頃、ブログを書いていれば、コートルード展の宣伝を、勝手にしてしまっていました。で、一番の推しは、「アンティーブ」です・・・みたいな。

 松の葉っぱが何か、可愛い感じなんです。白砂青松の日本の松とは、明らかにキャラが違います。アンティーブは南仏ですが、イタリアの松もこんな感じです。葉っぱが、水色の空の中で、きゃぴきゃぴはじけていて、花なのか松ぼっくりなのか解りませんが、オレンジの斑点が、宝石のように見えます。対岸の連山も、淡いすみれ色に烟(けむ)っていて、きれいです。西洋美術館にある「ウォータールー橋」も、モネは、この烟るようなすみれ色を使っています。ジミヘンの「Purple Hase」が聞こえて来たとしても、まったく違和感はなく、「かかって来いや、ジミヘン!!」って感じです。空は水平線に近い方が白っぽくて、高くなるに連れて、水色のグラデーションが濃くなります。対岸には、小さなヨットも帆をなびかせています。私は瀬戸内海を、数えきれないほど見ましたが(ちなみに地中海は1回だけ)瀬戸内海と地中海とは違います。瀬戸内海は、そうは言っても、しんみりしているんです。明るいか暗いかと云うと、やや暗め。地中海は、明るくしか描けない気がします。北仏の海は暗く、南仏は明るい。これはもう、フランスの画家たちのDNAに組み込まれている、お約束の公式なのかもしれません。ミストラルが吹く頃の地中海がどうなのか解りませんが、ミストラルがどんなに強く吹いても、太陽の光は、地中海に降り注いでいるんだろうと想像しています。

 ところで、ゴーギャンもアルルで、2ヶ月間、ゴッホと暮らした時に、地中海を見ています。ゴーギャンは、ルーツ船員ですから、海は好きな筈ですが、海の絵は、描いてません。海が本当に好きな人は、あまりにも当たり前すぎて、わざわざ描く必要はないのかもしれません。が、海に取り囲まれることは必要だと考えて、マルチニック島(カリブ海)に行き、結局、終の棲家として、南洋の島を選びます。タヒチに行き、最後は、タヒチよりももっと小さな、マルキーズ諸島のヒヴァオア島に移ります。タヒチやヒヴァオアで描いた数々の絵は、海を描いたり、描かなかったりです。描いたとしても、海は主役ではありません。ごく自然に、背景に海を覗かせています。ちなみに、最高傑作(と、私は思っていますが)の「我々はどこから来たのか、我々は何か、我々はどこに行くのか」の絵には、上端に海も空も描いています。最上部の左の端にオークルで小さな枠を拵え、そこに「D'ou venons-nous? Que sommes-nous? Ou allons-nous?」とタイトルを描き、その右側に青いきれいな空が広がっています。別段、ディスるつもりもないんですが、倫理の教科書(実教出版)に掲載している絵は、上端部の空の部分をcutしてしまっています。絵の下にキャプションが、4行ついているんですが、キャプションを2行に収めて、絵を全部、掲載すべきだとは思います。


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