【断章】いとしさ、せつなさ、なつかしさ、あるいは峯澤典子論のためのノート(1)
むかし、付き合っていたひとから、こんなことを聞かれたことがある。「あなたの、胸の中心を占めている感情は何か」と。わたしは、ためらわず、「せつなさ」と答えた。
子どもの頃から、すべてがいとしくてせつなくて、こんな自分では、到底この世の中を渡ってはいけない、と思っていた。幼稚園へ持って行くお弁当を、母が毎日作ってくれる。それがわたしをやりきれなくさせた。申し訳なかった。いつだったか、お弁当がのどを通っていかない日があった。わたしは発熱していた。泣いた。せっかく作ってもらったお弁当を食べられないこと、作ってくれた母の気持ちがせつなく、やりきれなくて泣いた。
話を最初に戻すと、かのような質問をしたひとは、自嘲するかのごとく、自分は、「むなしい」なんだよ、と言った。いつもむなしさを抱えているというのは、どういうことなんだろう。そのひとの、底知れぬ闇を見たような気がした。別離のときが近づいていたのか。もう、そのひとに会うことはない。
いとしさやせつなさは、実は不思議ななつかしさと結びついている、ということに気がついたのは、最近になってからだろうか。わたしは、いまの恋人と付き合うようになってから、このひとのことを、わたしはずっと前から知っている、と思った。実際は、そんなことはないのに。その感情を、何と言ったらよいのだろう。ひとつひとつの行為は、それを、再確認するようなものだった。それはもしかしたら、生まれる前の記憶なのかもしれない。
相手も同じように思っている、と知ったのも、不思議な出来事ではある。ひとは、かすかに、過去世の記憶を持って生まれるのだろうか。何度でも、同じひとに出会い、同じひとを愛するのだろうか。必ずしも、結ばれないとしても。かつて、ある作家が、せつなさは、いつか死ぬから感じるのだ、死ぬことをわかっているから、ひとはせつないと思うのだ、と言った。その通りだとわたしも思う。
峯澤典子さんの詩を読んだときに感じたのも、この、いとしさやせつなさ、そしてなつかしさだった。誤解のないように断っておくが、峯澤さんの詩は、取り立てて郷愁をテーマにしているわけではない。幼少期をモチーフにした詩について、わたしがなつかしさを感じたわけでもないのである。ただ、ああ、わたしは、このひとの詩を、ずっと読みたかったのだ、いろいろ彷徨ってきたけれど、このひとの詩は、静かに、ずっと、ここで待っていてくれたのだ、と思った。『あのとき冬の子どもたち』の冒頭、「流星」という詩。はじめて開いたときから、それは運命だった。引用させていただく。
マッチを擦っても
新年の雪みちには犬の影もない
ひと足ごとに
夜の音が消えてゆく
冷気を炎と感じられるほど
ひとを憎むことも
許すことも できなかった
せめて
てのひらで雪を受ければ
いつまでも溶けない冬が
ふたたび訪れることはない病室へ流れていった
それを流星と呼んでいらい
わたしの願いはどこにも届かない
それでも星は
清潔な包帯のように流れつづけた
ひたひたと、その詩のことばのひとつひとつが、からだのなかに流れ込んでくる。わたしはひとり、音もない、静かな、森のなかの湖のほとりにいた。波紋もなく、湖水は鏡のごとく静止する瞬間がある。湖は、底の底まで見えた。それはどこまでも深く、澄んでいた。ひんやりとした空気がからだを包んだ。わたしが出会ったのは、わたし自身だったのかもしれない。
詩誌「アンリエット」には、「湖底に映されるシネマのように」とある。それは、なぜか、わたしのなかで、不可思議ななつかしさと結びいた。そしてやがては、いとしさ、せつなさに昇華する。静かで、温度の低い言葉の奥にある、たしかな世界。峯澤典子さんの詩は、そういう詩なのだった。いちばん新しいはずの「アンリエット」に収められた詩も、やはりなつかしく、無限に美しい。わたしはいつでも、何度でも会いたくて、峯澤さんの詩を読む。そのたびに、初めて出会ったときのように、心を揺さぶられる。
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