またODしちゃいました

いやね、わざとじゃないんです。自分でも訳が分かりません。

ふと視線を落とすと、ボコボコのアルミ紙が映りました。その後辺りを見回し、机の上に置かれた空のペットボトルを見てようやく悟ったのです。嗚呼、また私は沢山飲んじゃったのだなと。

飲んだ瞬間の事はあまり覚えていません。おそらくは何気ない終焉欲といいますか、今抱えている何もかもと心中したいという強い一心で、一思いにあおったのでしょう。冷静になってしまえばそれは理屈から離れた、動物的なロマンチズムの行く末にも見えます。しかし死という座標も、暗雲立ち込める空蝉では爛々と光るものでして。生命に至る道は狭いという言葉はかのジャーナリストが語る真理ですが、それもおそらくは死があまりに眩いため、命が焼け焦げてしまうからでしょうか。昨晩の私の命は死に焦がれていたのです。

命には終わりがあります。しかし死には終わりがありません。私も貴方も、土に還ればそれまでです。ペンを握って、新しい何かを生み出すことはできなくなります。それは絶対的な儚さに悲しみを覚える瞬間でもあり、反面、生きていることの相対価値を高めるものでもあります。しかし悲しい哉、それは時として生ある者にかかる重圧になりうるのです。生きていなければできない事は山程ありますが、限りある命では果たしうる物事には限りがあります。分岐した選択肢のうち選ばれなかったもの、それら全てが私たちの双肩に死ぬまでのしかかります。その苦痛は時として耐えがたいものです。

例として、つまらない与太話を一つあげましょう。一人の人間が産まれました。その人は耐えがたい苦痛も、狂喜を誘う高揚も知らぬまま、成長しました。しかしある日、強大で避けがたい悪運がその人を襲いました。その人は救いがたい我が身に枕を濡らしながら、様々な事情によって、明日も生きねばならぬ義務を背負っています。どうしようもない程の無気力と焦燥、そして堕落した生活に慣れてしまった頃、その人はふと周囲へ目を向けました。すると、何ということでしょう。つい先ほどまでその人と同じ要素を備えていたはずの人々は、もう追いつけないほどに遠くへ行ってしまっていたのです。結局その人は、死ぬこともできぬまま、生き生きとした無間地獄へと足を踏み入れることになりました。

この場合、上記の人にとって、生きていることは苦痛と言う他ありません。しかし大多数の人間がそうであるように、一身上の都合だけでは人間は生きることを選ぶ他ないのです。論理的には、健康体の人間が生きていれば様々なことができます。その人は、心を排せば、紛れもない健康に相違ありませんでしたが、人生から分岐する選択肢に目を向けることができませんでした。そして虫が電灯に惹かれるように、ふと周りに視線を向けた瞬間、その人はそれが如何に恐ろしい事かを悟ってしまったのです。こうなってしまえば、もう腱は切られたようなものです。立ち上がろうにも足に自尊心がなく、息を吸おうにも肺にオイルが足りていない。ガラクタを模倣したかのような肉体で、その人はなおも生き続け、より多くの恥を晒すのです。もしも人生というものがより味気ない存在であったならば、その人はこうも苦しまずにすんだだろうに。しかし可哀想という言葉が似合うほど、その人は美しくありませんでした。

……とまぁ、余計な自分語りをしてしまいました。しかし天祐でしょうか。過剰摂取から数時間が経過しても、私は生きております。もちろん眩暈や吐き気には襲われておりますが、これ以上は悪くならなそうです。手持ちの分は飲み干したのですが、三途の川を渡るには足りなかったのでしょうね。

彼岸の世は自ら飛び込まずともやってきます。私は何度も足を運ぼうとしましたが、どうやら閻魔様もお忙しいようで、お迎えの橋は建設中です。完成するまでは、恥をかきつつ生きる他ないのですから、私はますます罪深い生き物になるのでしょうね。黄泉の先は極楽と地獄に分かれているそうですが、きっと私は地獄行きでしょう。幼い頃お坊さんが語ってくだすったことには、地獄とは生きるよりも遥かに苦痛を伴う場所だそうです。しかしそれはそれで贖罪と身分相応の応対という事になりますから、閻魔様はさすがの仕分け人でございます。

では、読者の皆様。命あらばまた明日。元気で行きましょう。絶望してはなりません。あっしはこれにて失礼いたします。


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