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「そこに山があるから登るのだ」の奥の深さ
過去記事の「努力」や「目標」にも絡む内容
そもそも「何かを目指す」ことが大事なことかどうかを考える。
人は何かに取り組むと、勝利を目指す。
それは相手に勝ったり、受験勉強だったら第1志望の大学に合格したり。
それは総じて「勝利」であると考えて良い。
この勝利、これは何だ。
何をもたらすものだ。
なんで人はこれを欲するのか。
そこに金やら名誉やらが絡まないとしても、それを志すことだろう。
マラソン大会に参加して目標達成がいい例だ。
突き詰めるところ、私はここに辿り着いた。
単に「自分」が優れている、を示したいため
矛先は相手じゃなく、自分である場合もある。
その表示が誰にとっても報酬であり、嬉しいものなのだ。
その勝利が具体的で難しいものほど、満足度は高まる。
その代わり、目指せば目指すほど、貪欲になる。
心が卑しくなる。
貪欲は本来そういうネガティブな言葉である。
仏教でも、最も苦しみを与える煩悩の一つとされている。
はるか昔、オリンピックが始まった紀元前においては、
スポーツマンは犯罪者より精神が下劣であると言われていたとされている。
「健全な肉体に健全な精神が宿るように」と願われていたほどだ。
その目標が「金」や「健康」や「名声」であるなら、終わりがないはずである。
それが具体的に何かを定義していないのだけれども、「貪欲さ」だけは維持されているためだ。
それが明らかに示す悪い例は、
ダイエットに励んでいる人が終わりなく体重減少を求めることだろう。
それがもたらす結果、拒食症に陥る、という現象は、何かで見たことがあるのではないだろうか。
それが更に曖昧な「勝利」だったなら、無限への道だろう。
つまり、何かを目指した、「優れた自分」を求めた結果は、卑しくなる、不健全な精神になってしまう、ということ。
何かを目指すことは、最終的に不利益をもたらしかねないことがわかった。
では、どうすれば良いか。
それはこう考える。
過程自体に目的を持つが大事なことではないだろうか。
つまり、尊いことは「努力」そのもの
またスポーツの例で恐縮だが、
「目的と手段を取り違えている」
という言葉をたまに聞く。
これは試合での勝利ではなく、日々の練習をこなすことだけに注力している状態を指すことが多い。
主にネガティブな表現で使われている。
これが本来は正しいことだよ、ということを言おうとしているのか?
いや違う。
私が言っているのは、そういうことではない。
過程のみに注力していた結果、自分自身は洗練されていくだろう。
そうしているうちに、本来目指しているはずだった「報酬」は勝手についてくる。
湧いてくるだろう。
マラソンの全日本記録保持者の大迫傑選手もこういった
「プロセスを一つ一つ追っていくだけ」
大迫選手は東京五輪で6位入賞を果たした。
コメントが印象的
「100%の力を発揮できた。自分を肯定できた。」
誰に言ってるのか、本人も、言われているかもしれない側もよくわからない「すいませんでした」でなく、「勝った負けた」などではなく。
彼は現役復帰を果たした。
「キレイごと言いやがって」
「世の中甘くない」
「勝たないといけない」
「どうやって食っていくんだよ」
非常で厳しい現実を知っているかのような人が使うような言葉である。
今ならわかる。
これらの種類の言葉は、浅いし軽い。
別にそういう言葉を使いたい時期があることは悪いことではないと思うが、
ずっとこのレベルに留まっていることは寂しい。
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