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環境問題と民主主義〜ヴィーガンではない僕がお肉に対して思うこと〜

環境問題と民主主義

今日初めての#しょうひしゃ アクションをしてきた。

しょうひしゃアクションって何?

まず初めに、しょうひしゃアクションとは何かを簡単に言うと、スーパーなどに置いてある意見用紙に「こんな商品を増やしてほしい!」「こんなものがあったらいいな!」という消費者の声を届けて、企業さんと共に!生産の在り方、消費の在り方を変えていこう!というアクションである。

僕が昨日企業に届けた声は、写真の通りである。

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お肉を食べるか食べないかということについて、僕は半年以上考え、悩んでいる。

以前、お肉を食べない食生活を何週間か続けたことがある。その時でも、毎日毎日悩んで考えていた。

つまり僕は、肉を食べてもモヤモヤしているし、肉を食べなくてもモヤモヤしている。ということはつまり、僕は「肉を食べる食べない」以外のどこかに違和感を覚えているということになる。

なぜそんなに悩んでいるかというと、僕は一度ヤギを屠殺して食べたことがあるからだと、最近気付いた。

目の前で動物を殺して食べるというのはどういうことかと言うと、もはや「残す残さない」の問題ではなく「生きるか死ぬか」という話になる。そして食べることこそが「循環」であるという認識も抱いた覚えがある。

動物は悪いことをしていないのになぜ殺されなければならないのか。
本当に殺される必要があるものなのか。
彼らは本当に「食べ物」なのか?
畜産をする過程で、木を焼いたり、土壌を荒らしたり、環境に負荷をかけている。

全て分かる。だから今スーパーからお肉が無くなっても、僕は「お肉食べれなくなって残念」だとは全く思わない。むしろ良き一歩ではないかと思う。そして、豚や鶏、牛が経済動物という概念から外れ、彼らは彼らが好きなように苦しまずに生きることが出来ると考えたとき、動物が好きな僕にとってそれ以上嬉しいことはない。

しかし、「お肉」として目の前にあるものを食べずにいるというのが、自分の中で大きな違和感になっているのだ。

消費行動で変わること

消費をしないということはつまり、売れ残る可能性がある。僕はホテルでバイトをしたことがあるが、ローストビーフでも野菜でも炒飯でも何でも、残ったものは一緒に混ぜて捨てられる。

もちろん、「消費をしない」という積み重ねが、いずれ生産者に「あれ、これ売れなくなったからもう売るのやめて別のものにしてみるか」という結果をもたらすであろうことも想像できる。

それが分かっていてもなお、お肉となっているものを残す自分にモヤモヤすることがある。

それは恐らく、2つの理由からだ。
「人の手によって苦しい思いをしながら生き、そして人の手によって死んでいった。それなのに今度は人によって食べないという選択をされ、ゴミ箱へと捨てられる」

「消費行動はたしかに大事だけど、死んだ動物に対するこの食べないという消費行動は動物にとってどうなんだろう」ということだ。

でもいずれは「食べない」という消費行動が、将来の動物達にとって良い結果をもたらすかもしれない。

だから本当に難しい。

今回の投稿のテーマを「環境問題と民主主義」としたのはそのためである。僕一人では全くわからず、また、多くの人と考え、話し合って、方向を決めていく、ということが環境問題において動物も人も環境にも負荷を減らしつつ変えられる方法だと思ったからだ。

僕が畜産の生産と消費においてベストではないかと思う方法は、

消費から変えて時間をかけながら生産を減らすというよりも、消費者の声とともに、消費者とともに生産から減らし、無駄になってしまう命を極力減らしていくことだと思っている。もちろん他のほうがいいんじゃないか!?と思う方もいるだろうし、そう思っている方はぜひ教えていただきたいし、こういうテーマだからこそインスタライブで発信したい。

だから「食べる食べない」という選択と同時に「なぜ食べないのか」「どうしてほしいのか」という声を直接生産者さんや販売者さんに届けられる#しょうひしゃ アクションは自分にとても合うものだなと思いこれからも積極的にやっていくつもりである。

民主とは、すべてを含む

環境問題と民主主義。
この「民主」には国民、消費者、生産者、販売者、政治家、そして動物や環境という、ありとあらゆるものが含まれていると僕は思っている。

僕だけ、自分だけ、では決して分からないことがある。それを最近知ったからこそ、他の人はどう考えているのかというのをしっかり聞いていきたい。

そうした姿勢が「取り残さない」というものにも繋がれば、良いなと思っている。

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