「酒で刹那の幸せを得て、そのまま溺れて暮らしたい」になったらヤバいので
アルコールを飲まなくなって3年と少し。特にこれという理由があって飲むのをやめたわけではないのでいつ飲み始めてもいいのですが、いちおう「出した本が増刷されたら飲む」と決めているので飲みません。飲まないとお金も減らないし身体も楽だしいいことだらけです。「ちいかわ」のくりまんじゅうも禁酒してすっかりきれいなくりまんじゅうになっていました。私も今日は会社でほうじ茶とくりまんじゅうをいただきました。きれいな自分。
暑い夏にはビールやチューハイが飲みたくなるのではと思っていましたが、そんなこともありませんでした。飲まなければ飲まないでなんとかなります。娘にはよく眠れるようにアルコールを勧めることもありましたが、それも最近は減りました。娘もきれいになっているのか。
コロナの影響で会合やら懇親会やらが無くなったのも大きかったです。忘年会や新年会も無くなりました。呼ばれないだけというのもありますが。仕事に影響はまったくないです。娘が病気のことを言い出す以前は「飲むのも仕事」ぐらいの勢いだったのに、あれから時を経てすっかり飲まなくなりました。そして今は飲むのは仕事じゃなかったなと思っています。そういえば若い頃は「待つのも仕事」でした。元々長時間待つのは平気なんですが、別部署の方と一緒に長時間待った時にその方がしびれを切らして帰ってしまったということがありました。あの時は1時間ぐらい待ったかなあ。いつもと比べてもそれほど長く待っていたわけでもなかったんですけどね。
娘は待つの全然ダメなんだよなあ。待ってるとどんどん不安が募ってくるみたいです。不安が募ると悪い妄想が膨らんで最終的には暴れ出します。パニックともちょっと違う気がするんだけどあれはなんなんだろうか。出先でそういうことがあると困ります。何度もありました。本当に困りました。今は外で待つようなこともないので楽です。ひどい時は病院で待ってるのもダメだったからなあ。殺される〜とか言って暴れてたな。
アルコール、特にこだわりもないので飲んでもかまわないと言えばかまわないのですが、いくつか不安があります。
ひとつは、酒の力で心の奥底に抑え込んでいた絶望が溢れ出してしまうのではないか、自分の限度を越えて溢れ出した絶望に飲み込まれ溺れてしまうのではないか、という不安。これはあります。そこまで自分では深刻に考えていないつもりですが、自分でも気がついていない深いところに淀んでいる絶望が酒の力で開放されたりすると困ります。決してないとは言い切れないんだよなあ。絶望は色んなことをドライブするので要注意です。普段は感じることのない希死念慮のような何かに突き動かされたりなんだりは自分では多分ンコントロールできないはずです。怖いなあ。多分大丈夫だと思うけど怖いです。
もうひとつは、逆に日々の退屈と停滞から抜け出してしまう可能性です。酒で刹那の幸せを得てそのまま溺れて暮らしたいとか、そんな泥沼にハマってしまう可能性もまったくないとは言い切れません。基本的に自分が信用できません。なんもかんも酔っ払ってると幸せだな〜、みたいな気分は酩酊にはつきものです。人工的な多幸感。それはそれでかなりやばいです。危ない。
酔っ払うと色んなことができなくなります。元々酒は弱いので飲んだら飲まれるほうです。それを思うと、やはりよほどのことがないと飲まないほうが無難な気がします。若い頃から飲まなければもっと違う人生もあったのではないか。まあ、そんなことは考えても仕方ありません。
昨日の夜、娘に生理は終わったか聞いたら終わったと言っていました。今回はなんだかんだで便座の汚れも控えめでした。気持ちが穏やかだと色んなことがいいほうに働きます。
「そしたら明日お風呂はいってよ」
「明日お風呂はいる」
そう約束したのは昨日。今日の夕食とクスリのあと、約束通り風呂にはいってくれました。約束が守れるのは素晴らしいなあ。本当に状態がいい。やっぱりビタミンDなんじゃないのかなあ。どうなのかなあ。
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