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読書日記#01: 「読書と私」~『読書について』

読書日記を始めます

皆さん、お久しぶりです。こちらのアカウントは、主にヨーロッパに留学した際の「留学日記」として使ってきましたが、これからは趣を変えて、「読書日記」を書いてみたいと思います。「読書日記」というとちょっと大げさですが、不定期で、最近読んだ本をもとにしながらエッセイを書く、ということです。タイトルはひとまず「読書と私」とさせてください。

今となっては趣味の一つに数えられるまでになっていますが、そもそも私は大学に入るまでほとんど本を読む習慣はありませんでした。それまでは、とにかく活字が嫌いで、読んでいても全く頭に入ってこない。文章を読む機会と言えば、英語と現代文の授業くらい。それ以外には、ごくまれに図書館で本を借りては、途中で飽きて挫折して・・・そんなことを繰り返していました。ましてや書店で本を買うことなど全くありませんでした。

本を読むきっかけになったのは、コロナ禍でした。人とも会えず、外にも出られないなかで、「もっといろんなことを勉強したい」「自分と向き合いたい」という2つの欲求が、私を読書へと突き動かしたのでした。というと、ものすごく崇高な理由にも聞こえますが、本当のきっかけは「やることがないし本でも読んでみるか」くらいの気持ちでした。

大学2年生になってすぐに緊急事態宣言、授業も全面オンラインで、毎日家にこもってオンライン授業をこなす日々。毎日朝から晩まで机に(パソコンに?)向き合っていました。その学期中にとった授業が面白くて、「もっといろいろなことを勉強したい」と思うようになりました。でも、学期中に取れる授業数は限られている。大学で本当に勉強をしようと思ったら、授業を取るだけではなくて、もっと本を読むしかないんじゃないか。それが1つの理由でした。

そしてもう1つの理由が、「自分と向き合いたい」ということ。コロナ禍で誰にも会えず、自宅で家族と過ごす日々。会いたい人に会って話ができること、これは決して当たり前のことじゃない。そのことを身をもって感じました。そして同時に、意外と自分が寂しがりであるということにここで初めて気がつきました。

これまでの自分は、人と対話するばかりで、自分との対話を十分にしてこなかったのではないか。否が応でも漠然と、将来のことを考える大学生活。自分が何が好きで、普段どんなことを大切にしていて、どんな人生を送りたいと思っているのか、そういう根源的なことを改めて考えたことはありませんでした。

特に2020年4月時点では、この感染症禍がどの程度危険で、どれほど長く続くのか、全く読めませんでした。ひょっとしたら、このまましばらく人と会えない期間が続くのではないか。だとしたら、一人で過ごすすべを学ばなければならないのではないか。自分と向き合うのに、今がチャンスなのではないか。

そのための1つの手段が本でした。本を読んで、もっと世界について知りたい。自分の知らない世界や、自分とは全く異なる人の人生を知るうえで、読書は最も簡単な方法です。その上で、自分の頭でよく考えて、もっと豊かな眼を養いたい。そして、できるならば、本を読み考える中で素敵な言葉に出会って、その言葉を誰かに贈り届けられるようになりたい。そんなことを考えていました。

『読書について』

せっかくここまで最近の読書について話してきたので、1回目は読書についての本を紹介してみたいと思います。初めに紹介する本は、ショウペンハウエル『読書について』(光文社古典新訳文庫)。岩波文庫もありますが、こちらの新訳のテキストの方が読みやすいと思います。

いざ「本を読もう」となると、どんな本を読むべきか、と考えてしまいがちですが、まずはこちらの本を読んで、そもそも「読むとは何か」、もう少し平たく言えば「自分にとって、本を読むとはどんな意味があるのか」を考えてみてはいかがでしょうか。

その上で、「どんな本を読むべきか」という問いについて。私自身も「おすすめの本はありますか?」と訊かれることはあるのですが、この質問は意外に手強くて、簡単には答えられません。「これ、美味しかった?」と訊かれたら答えやすいですが、「美味しいものは何?」と訊かれたらなかなか答えられない。人によって味覚が違うように、本の好みも人によって違うので、特定の本をおすすめする、というのはなかなか難しい。それに、人によってそのとき必要とされている本は違うわけで、私がよいと感じた本が、必ずしも他の人にとって同じように感じられるとは、限らないからです。

そもそも、ある本を「面白い」と感じること自体、その人の性格やその時の年齢、精神状態、時代状況などによるのではないかと思っています。ロシアのウクライナ侵攻が始まればロシアやウクライナ、ヨーロッパの歴史について知りたいと思うでしょうし、東日本大震災や感染症禍など、死を意識せざるを得ない時になれば、生と死についての本を読みたくなるでしょう。落ち込んだときには励ましの言葉を求めて本を読みたくなるでしょうし、恋愛に失敗した時には恋愛のエッセイを読みたくなるでしょう。

しかし、それでもあえて、誰にとっても何かしら得るものがある本を挙げるとすれば、それは古典です。

例えば、まずは有名な本を読んでみようと思って、書店で平積みになっている「売れる本」を手に取ってみるとしましょう。なるほどそういう本は流行を的確に捉えていて、確かに「その時」には役に立つかもしれない。でもよくよく読んでみると、表面上は人々の心を掴むような言葉でも、そこに奥行きが感じられない。流行が常々変化し続けるように、流行に乗った本も時が過ぎればみな目も暮れなくなり、すぐに皆が読まなくなってゆきます。

それに対して、古典は数百年、数千年の歴史の中で何億、何兆と、数え切れないほどの本が出る中で、いわば「生き残った」本ですから、それだけの価値がある。言ってみれば「賞味期限」が長いのです。その後の歴史に大きな影響を残したとか、言葉遣いが綺麗だとか、色々な理由があります。例えば友情、恋愛、就職、幸福、そんなテーマについても、直接的には書かれていなくても、全く関係なさそうな本の中に大きなメッセージが隠されていたりするものです。

それに、何十年前、何百年前、何千年前の、全く異郷の地の人の話を聴けるというのも、なんだか魅力的に感じます。今、2024年の日本に生きる私たちが、紀元前400年頃のアテナイを生きた哲学者の話を聴ける。当然、時代が違いますから、容易には理解できないことの方が多いですが、その分、考え抜いた結果理解できたり、何か現代に通ずるものがあったりすると、読書の喜びも増すでしょう。読書によって私たちは、時空を越えた旅ができるのです。

ショウペンハウエル自身も、次のように述べています。

精神のための清涼剤として、ギリシア、ローマの古典の読書にまさるものはない。たとえわずか半時間でも、古典の大作家のものであればだれのものでもよい。それを手にすれば、心は洗い清められて、高揚する。旅人が冷たい石清水で元気を回復するようなものである。

ショウペンハウエル『読書について』

「古典」というと少しハードルが高いように思えますが、要は「名作」と呼ばれる作品ということです。何も彼が言うような古代ギリシア文学や古い時代の神話でなくてもよいと思います(この類は僕もあまり読みませんし読めません)。時代を超えて長く読まれているものには、それだけの魅力があって、心に栄養を与えてくれるものが多いです。読みやすくて面白い本を読んでみるのもよいですが、ときには少し腰を落ち着けて、「名作」と呼ばれる本に向き合ってみるのも、よいのではないでしょうか。

読書のマイルール

さて、それでは買った本を「どう読むべきか」。これは自分の好きなようにやっているうちに習慣付いてくるものですが、せっかくなので最後に私なりのルールというか、普段気を付けていることを3つ紹介したいと思います。

①はじめから全部を読もうとしないこと。

本を読むときの落とし穴の一つは、それが小説であれ新書であれ、はじめから「すべてを理解しよう」としてしまうことです。必ずしもすべてを「読める」必要はありません。「読めない」からこそ、頭を使って考えるようになる。どうしても理解したいと思って、他の本に手を出す。「読めない」からこそ、その過程で得られるものもあるのです。わからない本をわからないなりに読んでいくということも、それはそれで面白いことです。

簡単で中身のない本を10冊読むよりも、難しくて中身の詰まった本に挫折する経験を1回した方が、断然自分の精神は豊かになります。難解な書物を読み解くことは、歴史を超えた叡智と真摯に対話することです。そしてその過程で考え抜いた先に得られる知識は、単なる知識以上の役割を果たし、私たちの人生を豊かにしてくれるのです。同じことはショウペンハウエルもこの本の後半で述べています。

いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考え抜いた知識であればその価値ははるかに高い。

ショウペンハウエル『読書について』

本の全部を理解する必要はないし、理解しようとする必要もない。ただその代わり、自分が気になった部分についてだけでもよいから、きちんと頭を使って読むこと。ショウペンハウエルのいう「他人の頭で考える」読書ではなく、「自分の頭で考える」読書をする。それが大切なことだと思います。

②できるだけ、本にかけるお金や労力を惜しまないこと。

私は「これは・・・!」と思った本は、迷ったら買う/借りるようにしています。それを家に帰ってから読むのかどうかは別に重要ではないんです。「積読」が批判されることもありますが、実際に読むかどうかよりも、手元にその本があって、いつでも読めるようになっているということが重要なのだと思います。だから、読書が苦手な人にはまず「積読」を勧めます。

というのも、本との出会いは人間関係における出逢いと同じで、偶然に左右される面が大きいように思えるのです。出会った瞬間に「好きかも!」となることももちろんありますが、初めはあまり興味がなかったけれど、後になってじわじわと関心が湧いてきて好きになることもある。それは往々にしてよい友人やよい恋人との関係、人間関係に似ています。

1人のよい友人に出逢うためには何百何千の人と出逢わなければならないように、1冊のよい本に出逢うためにも、たくさんの本と出逢わなければなりません。そのためには、関心を持った本にはできるだけ手を出す、ということが必要なのだと思います。

③できるだけ、本を読んだ後に自分で文章を書くこと。

先に、読書とは時空を超えた対話であると述べました。私は、感じたこと、思ったこと、考えたことを、誰かと話したい。「読む」と「書く」というのは呼吸のようなもので、どちらに偏ってしまっても、少し苦しくなってしまうのかもしれません。

けれど、当然ながら書き手と話すことはできません。だから、友人や先生と、本を読んで考えたことについて話し合う。それが、いわゆる「読書会」であり、「講読」であり、多くの大学生がゼミや演習と呼ばれる少人数授業で行っていることでしょう。

しかし、プライベートな読書の場合、誰かと話すということは難しいかもしれません。そんな時は、誰かに話しかけるつもりで、自分で文章を書いてみてはいかがでしょうか。本を読んだ感想を、場合によっては気になるところに付箋をつけておいてそこへのコメントを書いてみる。喜びでも悲しみでも、共感でも反感でも、読んでいて思い出したことでも、怒りでも、モヤモヤでも。いわゆる「読書ノート」のように立派なものまでいかなくても、一言何か書いておくだけでも、いつか読み返したときに、新たな発見があるかもしれません。

そうは言っても、文章を書くなんて肩に力が入ってしまう、なんだか読書のハードルを上げてしまうようで嫌だ、という方もいるかもしれません。そんな方でも、「印象に残った言葉をメモしておく」だけなら、簡単にできるかもしれません。私の場合は「ことばのノート」と名付けたメモ帳とボールペンを用意して、読んでいて印象に残った言葉を書き写していくようにしています。後から見返すと、自分だけの辞書ができあがったようで、なんだか楽しいです。もちろん、時間がないという方や紙はもう使いたくないという方は、スマートフォンやPCのメモ機能を使っても構わないと思います。

このマイルールは、読書の意義を「本の内容を正確に覚える」ことに置くならばほとんど役に立たないかもしれません。けれど、そうではなくて、「読書によって自分を豊かにする」ことを大切にするならば、本の内容が全く分からなくても、自分が「これだ」と思える一文や一節、一語に出逢えただけでも、その本を読んだ意味はあるのだろうと思います。その一文、一節、一語のことばに触れるなかで私は、豊かな言葉を操れる人間になりたいと願っています。

これから不定期で、最近読んだ本を紹介しながら簡単なエッセイを書いていきたいと思っています。ご関心がおありの方は、ぜひ続けてお読みいただけますと幸いです。


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