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文章のリズムは論理によって構成される

一度読んだ「20歳の自分に受けさせたい文章講義」を再読している。ライターとして書き方の土台にしている一冊だ。土台にしている理由はとてもシンプルな理由で「わかりやすい」「納得できる」からだ。

この本をこうして改めて読む意味は、はじめて本を読んでいた頃の自分よりも経験値の増えた今の自分が読むと、どんな学びがあるのかを知るためでもある。

そして二回目はできるだけアウトプットして、著者の古賀さんの考えをもっと自分にすり込みたい。

だから今回はタイトルの通り、文章のリズムは論理によって構成されることについて自分なりの整理をする。このエッセイは本の解説や書評ではなく、自分で決めたテーマに沿って、自分なりの考えを書くものなのでその点はご了承願いたい。

著書の中で言われていたのが、読みにくい文章とは句読点の入れ方以上にその文章の論理性が破綻していることが原因だと言う。

極めてシンプルに考えれば当然のことなのだが、論理が破綻して書いている人は多いらしく、分かっているつもりでもできていない。

僕の場合も、noteで書いているエッセイは書きたいことを自由に書いているのと、書きながら自分の思考をまとめているので、誰かに伝える論理よりも自分の思考を可視化することを優先してしまう。

僕にとっては思考を深めるという意味ではこれでいいのだけれど、クライアントから依頼される文章や、しっかりと伝えたい目的がある文章を書く時はだめだ。

そもそも論、自分の思考をまとめたり深めたりするのも、単なる文字の羅列では整理にならないので論理的に構成する必要がある。だから結局は自分の書きたい文章、例えば日記などであっても論理的に構成ができて悪いことは一つもないように思う。

結論、どんな文章でも論理的に書けた方がいい。
今後もこのことは深く頭に刻んでおこう。

ではどうやって文章の論理性を確かめるかと言うと、本書でも紹介されていた見分け方で「接続詞がつくかどうか」で判断できる。

だから、なぜなら、そして、など文と文の間にこういった接続詞が自然と入るということは、文と文が正しくつながるので論理が破綻していないことになる。

これは全ての文章において、とても簡単に論理性の欠如を確認できるので是非クセづけたい。

書くことは大前提として何かを伝えることである。そして伝えることとは頭の中に散らばった思考や言葉である「自分語」の翻訳をして、読み手に届けることである。

最初から最後まで完読される文章を作るため、1000~1500文字の人が読みやすい量感にまとめることも大事だ。

だけどそれ以上に、その文章は論理的であるのかを重視した方がいいのは間違いないだろう。

引き続き「20歳の自分に受けさせたい文章講義」を熟読し、また自分なりの言葉で言語化していきたいと思う。


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