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あなたは、子どもにとって「信じるに足る大人」か?――「生きる」という表現を守ること

11月29日に盛岡で開かれた、子育て研修会の講演で話したことの要旨をまとめてみました。


言葉を三つしか話せないならば、三つのことしか考えていない、三つのことしか思っていないということ…?そんなばかなことはありません。子どもたちを未熟だとみくびったら大間違いを犯すことになる。

魂は、生まれてきた時からすでに完全なもの。そう思って、子どもを敬うべき。ただ、魂には眠っている部分が沢山ある。それを目覚めさせるのが、経験。導き手としての大人が担うべき役目は、目覚めを誘うこと。子どもの個性に対して適切に関わることをせず、ただ「人間の標準形」にはめ込んでいこうとすることは「育てる」とは言わない。

表現とは描くことや奏でることばかりを言うのではないです。見えない体の内側や、見えない心が、姿を表すことを表現と言います。

表現は他者に向けられるばかりではありません。ダイナミックに外向的に表現する子もいれば、一人静かに自分の心を感じていたい子もいる。それも表現です。表現は、自分の心の在り方を肯定することでもある。

たとえ問題や課題に見える行動でも、心の表れには必ず必然的な背景がある。どんな心も一度は否定無しに受け止めない限り、その背景の事実は見えないし、事実から出発しない限りその先のコミュニケーションも発達も根付くことがない。

信じるに足る大人がそばにいた子どもの、大人になってからの心は安定し、生きる力は充足している。これは知的な障害のある人も同じ。

親や保育者、教師、子育て支援者などの大人には、子どもにとっての「信じるに足る大人」であることを人間として目指して欲しい。

描くことを子どもたちに促すのは、技能を身に付けさせるためではない。技能を教えるだけだとしたら、それはほとんどの子にとってその後の人生で大して役立ちはしない。

描き、作ることへ誘うのは、自分の心を表現する術を子どもに手渡すこと。自分を肯定する術を手渡すこと。

そして、その子の最大の作品である「人生」という表現の一部として、「描くこと」や「作ること」はある。その必要性は人によって違う。人生のピースとしてさほど必要でなければ、描くこと作ることにいたずらに執着しないほうがいい。

人の社会は、全ての人ひとりひとりの表現で出来ている。自らを表現できることは生きるエネルギーを生み出し、心身を健やかにする。表現することを誰かに抑圧されたり、強いられたりすることは、生きるエネルギーを削ぐ。生きる喜びを奪う。

そして、「表現する」だけでは足りない。

皆が表現することだけを求めれば、表現の弱肉強食の世界になる。口さがない、あつかましく図太い憎まれっ子だけが世にはばかる。自らを表現することと、他者の表現を受け止めることが両輪となって揃う時、初めて社会は健やかなものになって行く。

一人ひとりの生きる喜びが削がれない世界に。



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