モンターニュの折々の言葉 389「日本には、何故、救世主を求める動きが生まれないのだろうか」 [令和5年5月6日]

 今日は如何にも五月晴れという天気の東京で、マスク姿も次第にマイノリティーになって来ておりますが、マスクは、私的には、結構重宝できる品物だと思っています。花粉症対策にもなるし、風邪などのウイルス対策にも一役かっていて、実際、この3年間、風邪に一度も罹らなかったのは、マスク効果が大きいかなあと。尤も、風邪を引かなくなった最大の要因は、怪我の功名的に始めた日々のランニングだと思います。ランニングはゴルフのようにお金はかかりませんが、肺機能や下半身の筋肉を無料で鍛えてくれるすぐれもの。お陰で、2014年からは風邪知らずであります。

 さて、3月20日に令和4年度のバイトを最後に、長い春休みが続いておりましたが、昨日から令和5年度のバイトが開始。6月からはフル活動になりますが、5月は半分程の業務で、肩慣らし運転とは言いませんが、小学校と中学校での補習授業を請け負う仕事で、中学校は昨年度と同じで中学校なので気が楽なのですが、小学校の方は昨年度とは違う小学校での仕事。昨日は、その初めての小学校での仕事でしたが、生徒は小学校2年生。授業はまあ、静かに、混乱もなく、無難無く終えたのですが、学校をよく知る人の話では、「生徒は猫をかぶっていたんでしょう」と。

 小学校の低学年の生徒を机に座らせて、1時間静かに勉強させるのは、教える側にとっては、えらく体力と気力を必要とするようで、終わるとどっと疲れが出てきます。その点では、中学生の方が楽なのですが、薄々気がついていることではありますが、経験があって、評価が高い講師は、より難しい学校の授業の講師にさせられるようで、私のケースもそうなのかなあと(薄笑い)。事業主から評価されていることは良いのですが、やる方は大変であります。ただ、小学生2年生は、なんとも可愛いもんです。一番、可愛い時期じゃないのかなあと。こんな時期がモンターニュにもあった筈なのですが、次第にその記憶が、、、。

 ところで、話が過去に遡りますが、過去といっても、この前の日曜日ですが、息子がベトナム一人旅から無事に帰って来て、久しぶりに家族3人で、地元の寿司屋へ。ほぼ一年ぶりで家族で出かけたのですが、ここにも物価高の波が。おまかせの寿司が500円程値上がっていました。家内はそのことを知っていて、もっと早く来たかったと、悔やんでおりましたが、女性はと一般化してはいけませんが、500円の値上がりに、目くじらを立てるというか、500円お得な方を選ぼうとする、その執念に、私は時にはたじたじになるのであります。しかし、3人なら1500円にもなりますし、500円は馬鹿には出来ません。

 で、思うのですね。100歳まで長生きできそうな健康長寿の方の極意は、のうのうと生きることですが、こうした500円であれ、お得なものを得ようとする、庶民的でささやかな幸せを得ようとする姿勢というものも、健康で長生きする秘訣かもしれませんね。1円を笑う者は、1円に泣くともいいますし。店は満員御礼でしたが、いつもながらの味で美味しく、胃は喜んでおりましたが、懐の方は軽くなった次第。

 ちなみに、この夜飲んだ日本酒は、都内の店ではなかなか揃えていない、島根の王録(おうろく)と、三重の作(ざく)。王録はこの店の定番的な酒ですが、作は初めて店で見たので、試しに頂きました。家内の話では、三重で前回G7サミットが開催された際の食事会で供された酒だとか。かなり、パワーのある酒ですな、この作は。山田錦の真骨頂なのかもしれません。色々な銘柄があるようなので、一回だけの試飲では評価できませんが、酔が回るのが速く、力強く、松坂牛にも多分合うんでしょう。

 今年のサミットは、岸田総理のお膝元の広島。以前、賀茂鶴の酒蔵がある西条市の賀茂高校で講演したことがありましたが、広島には、美味しい酒も、そして海産物もあるでしょうし、G7のVIPの方々を唸らせるような宴が行われることでしょう。少なくとも、食べること、あるいは、見ること(世界遺産でもある風光明媚な景観、そして、あれですね、原爆関係施設が)では、ほぼ成功は間違いなしではないのかなと。ただ、前から気になっていたのですが、宴会の席での音楽はどんな曲を流しているのかなあということ。雅楽ではなさそうですし、広島出身の歌手の歌なんでしょうか。会議の中身?ですか。もう現実を変えるだけ力はG7にはないでしょうし、要は、社交的になって、会うことに意義があるという、オリンピック精神に近くなってきたのかなあと。

 ところで、日本では、フランスのように、ジャンヌ・ダルクのような救世主が突如現れて、国を救うという話は聞いたことがありません。鬼ヶ島の鬼退治の桃太郎は、犬、猿、雉を吉備団子を餌に家来にして、岡山=吉備の守り神であった鬼を退治するという、中央政府が地方の豪族をやっつける話のようなので、桃太郎は国の救世主と言えば言えるけれども、地方から見たら、そうはいきません。 別に国ではなくても、もっと規模が小さいレベルでもいいのですが、白馬の騎士のような人が出てきて、弱者を助けるという歴史的な話はどうもないように思えます。何故なんでしょうね。フランスの救世主といえば、ジャンヌ・ダルクもいますし、ナポレオン・ボナパルトも見ようによってはそうでしょう。ド・ゴールもそうでしょう。フランソワ・ミッテランも社会党の救世主的ではありました。フランスの小説の面白さに、主人公の特異さがあります。こうした主人公は、現実に存在したかのようなモデルがあって、鶏と卵のような関係は、小説と現実の関係でもあります。

 ところが、日本では、どうもそうでない。日本人の方がプラグマティックなのか、どうなのか。この辺の違いはあるのですが、日本の主人公として傑出しているのは、童話や漫画、アニメの登場人物なんですねえ。日本人は、文字よりも絵に関心がある視覚的人間で、印象派的な傾向があるということなんでしょう。それ故にか、俳句とか、短歌に優れ、しかし、詩はそこまでではない。

 今日のまとめ、というよりも、何故、日本には、現実において、英雄出現、救世主の出現への希求が希薄なのか(政治においてもですが)、その辺の思考の参考になるかもしれない、言葉をご紹介して、失礼を。

「ジャンヌ・ダルクの運命は、いくつかの教訓を今に伝えてくれている。ひとつは、腐敗した、宮廷のような社会からは、純粋な魂の持ち主はかならず、いつの時代でも邪悪な存在として排除されるということ。直接、国事にかかわる裁判においては、支配階級の利害が、その判決を左右しがちであることは、これも時代にかかわらず事実であり、時代を超越した正義というものが、歴史上、実現せられたことが一度でもあったかどうか、甚だ疑問だということ。もっとも、利害関係が消滅して、安全となれば、その時、正義はいずれ認められるだろうが、裁判の被告にとっては、後の祭りで、何の慰めにもならない。 また、民衆というものは、苦難のなかで、必ず偶像を発明するということ。我が天草の乱における美青年、四郎時貞も同様であるが、支配階級というものは、自分たちの役に立つ間は、その偶像を利用し、要らなくなれば、躊躇なく切り捨てる。などなどである。私は、パリの中心部の広場に立つ黄金の、甲冑姿の美々しい、この少女の像をあおぎ見るたびに、そうした人生の歯車のきしむ音を聴く思いがする。」

中村真一郎「文学的散歩」の「救国の英雄ジャンヌ・ダルク」

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