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モンターニュのつぶやき「天才のいる国を訪ねてみたい」 [令和3年5月6日]

[執筆日 : 令和3年5月6日]

「人間は、客観的な世界にのみ生きているのではなく、また、普通考えられているように、社会活動の世界のみ生きているのでもなくて、自分たちの社会の表現手段となっている特定の言語に左右されるのだ。・・・・・・われわれが、見たり聞いたりその他経験するのは、多分に、われわれの社会の言語習慣が前もって一定の解釈を選ばせるからである。」          エドワード・サピア著安藤貞雄訳「言語 ことばの研究序説」(岩波文庫)
の「解説」にあるサピア「科学としての言語学の地位」(1929年)

 ゴールデンウィークが開けたら、コロナ禍も収まるかと淡い希望を抱いていたとは申しませんが、なんだか、雲いきは怪しそうで、今月末まで緊急事態宣言が延長されるという話もありますが、海外のメディアはオリンピックの中止の声を上げ始めているとも仄聞します。挙げた拳の仕舞い処、難しいですねえ。関わっている関係者、本当にご苦労さまです。しかし、手放しで喜んでオリンピックを歓迎する日本国民がそれほど多くはないこともありますが、海外での注目度が、更には参加する選手のレベルが気になるところで、なんとも悩ましい限りです。
 ところで、私の知人が長く勤めた職場から新天地に職を変えたという案内を頂戴しましたが、それまでの仕事とは全く違う仕事をこなせるというのは、才能が豊かというか、天才型の人だったもかもしれません。特に、芸術関係の仕事をしている人は、もうそれは憧れ的対象になります。
 先日、日本ペンクラブが国際交流基金のトロント事務所と共催で、カナダの作家とのオンライン講演会をしておりましたが、日本からは、浅田次郎、桐野夏生、平野啓一郎、カナダからは、マーガレット・アウトウッド、キャサリン・ゴヴィエ、ヴィンセント・ラムと、錚々たるメンバーによるお話会でありました。カナダという国を身近に感じるようになった理由に、ある小説があったからという理由の人もおいでかもしれませんが、私なんかはまったくその口ではありません。私がカナダに関心が向いたのは、日本人に最初に英語を江戸時代に教えてくれたのがラナルド・マクドナルドRanald MacDonald(1824-1894)であったことと、忘れられた偉人、安藤昌益を見出した外交官で歴史学者のハーバード・ノーマンHerbet Norman(1909-1957)の存在があったからで、何も「赤毛のアン」を読んで、カナダに恋したわけではありません。それから、もう一人気になっていたのが、エドワード・ピアスでした。そうなんです、私が恋するのは、いつも言葉に纏わる人なんですねえ。なお、カナダという国は、いわゆる多様性を重んじる国ですが、小説家もそうですが、音楽家もクラシック、ジャズ、そしてポピュラーと、多くの優れたミュージシャンを輩出していて、言語的に優れた国民なのかもしれませんね。それは環境のせいなのかはわかりませんが。

 随分昔に読んだ冒頭のエドワード・サピア著安藤貞雄訳「言語 ことばの研究序説」(岩波文庫)をこの連休に再読して、記憶が多少蘇りましたが、エドワード・サピアという学者は、天才的言語学者・文化人類学者と言われた人のようで、彼は旧ドイツ生まれのユダヤ人で、父親は教導師(ラビ)。米国に移住し、後にアメリカ・インデアン諸語の研究家として、コロンビア大学で博士号を取得し、オタワの国立博物館で15年間勤務(人類学部門部長)。その後米国に戻り、シカゴ大学で人類学・一般言語学教授として教育と研究に専念し、最後はイェール大学で言語学、人類学を教えながらも研究を続け、アメリカ言語学会会長、アメリカ人類学協会会長を務めるも、55歳で心臓発作で死亡しております。
 後世に色々と影響を与えた学者のようですが、言語学というアカデミックな話は、私的には、ついていけませんが、元外交官としての言語の関心は、思考との関係、あるいは、民族性との関係、畢竟、文化との関係であります。しかしながら、サピアの言語観では、文化は言語学の研究の対象ではないというか、言語に文化は内在していないと見る立場のようでありまして、その辺はやや残念ではありますが、仕方ありません。
 サピアの言語観が正しいのでしょうから仕方ありませんが、彼は言語の定義としての記号的体系性、コミュニケーションの調整機能の点を強調しています。また、言語と思考の関係については、鶏と卵のような面がありますが、道具としての言語が増えれば、生産物としての思考も増えるという相関性を指摘し、言語の中に、思考の鋳型のようなものがあるとして、言語が思考に先立って存在したであろうとしています。以下は、言語の定義、そして言語と思考の関係についての彼の言葉です。
「言語とは、意図的に産出した記号の体系によって、思想、感情、または欲望を伝達するための、純粋に人間的で非本能的な方法である」
「ことばは、脳や神経系統においてまた、調音器官や聴覚器官において、コミュニケーションの所期の目的へと指向する、きわめて複雑で、絶えず変化するネットワークをなす調節運動なのだ」
「言語の観点からすれば、思考とは、ことばの潜在的な、または可能性を秘めた、最高の内容である、と定義することができる。すなわち、言語の流れのなかの各要素が、もっとも充実した観念的な価値を有する、と解釈される場合に得られる内容である。ここから、ただちに得られる帰結は、言語と思考は厳密には完全に重なりあることはない、ということだ。言語はせいぜい、思考が記号表現の最高の、もっとも一般化されたレベルに達したとき、その外面になるにすぎない、。」
「一番もっともらしいのは、言語は本来、概念の次元よりも低い用途にあてられる道具であって、思考はその内容の洗練された解釈として生じる、ということだ。言いかえれば、製品(思考)は道具(言語)によって増えるのであり、思考はその発生発においても、日常の使用においても、ことばなしでおこなえる、などと想像することはできない。それはあたかも、数学上の推論が、適切な数学用の記号体系の助けを借りないでは実行できないのと同様である」
「明確な概念や、概念をあやつる思想が発生するよりも前に、高度に発達した言語記号の体系が練り上げられていた、と想像してはならない。むしろ、思考過程は、言語表現のほぼ初期段階に、精神の横溢のごときものとして始まった、と想像しなければならない。さらに、概念はひとたび規定されると、必然的にその言語記号の生命にはね返ってさらなる言語的発達を促した、と想像しなければならない」
「言語の本質的な事実は、むしろ、概念を分類し、形式的なパターン化をし、関係づけることにある。もう一度言う、言語は、一つの構造として、その内面においては思考の鋳型である。」
 文明論的というか、やや機械的な感じもしますが、これはこれで。
 また、訳者の安藤さんによれば、「サピアーウォーフ仮説」というものがあるそうで、それは、J.Bキャロルが用いた表現で、人の思考様式は言語習慣によって規定されるという仮説のようです。習慣というのは第二の個性にもなり得ますので、日々使用している言語は、その使用する人間の思考も当然に変えうるものなんでしょう。スマホばかりをいじっている人の思考は、当然にスマホ言語によって変貌するでしょうし、難しい哲学書、あるいは、科学書を読んでいたら、そうした思考に対応できる言語を持って、且つ思考しなければコミュニケーションができない訳ですから、言語習慣によって、人
の思考様式が規定されるものであると、断言的に言えないかもしれませんが、少なくとも影響はされるのではないかと思います。

 安藤さんも強調していましたが、一番面白いのは言語と文化、文学との関係についてです。サピアの言語は、記号体系ですから、文化的要素は考慮していませんが、とても面白いと思ったのは、翻訳についての話でしょうか。
「言語は、われわれにとって、思想伝達の体系以上のものだ。言語は、われわれの精神をまとっている目には見えない衣装であって、精神のすべての象徴的表現に予定された形式をあたえる。その表現がなみなみならぬ意義を有する場合、それは文学と呼ばれる」
「クローチェは、文学作品は決して翻訳することはできない、いっているのは全く正しい。(中略)文学という芸術には、ふたつの異なる種類またはレベルの芸術が絡まっているのではないか、という問題を提起する。異質の言語的媒介に移しても失われることのない、一般化された非言語的な芸術と、移すことができない、とりわけ言語的な芸術とだ」
「文学は、媒体としての言語のなかで展開されるわけだが、その媒体は、2つの層から成り立っている。すなわち、言語の潜在的な内容ーわれわれの直観的な経験の記録ーと、与えられた言語の構造ーわれわれの経験の記録の特殊な様式ーとである。(中略)深い層から得ている文学は、たとえば、シェイクスピアの戯曲のように、翻訳してもあまり大きく特質を失うことはない。深い層ではなく、上の層で展開される文学であるならばースウィンバーンの抒情詩がその好例であるーそれは、まず翻訳不可能といってよい。どちらのタイプの文学表現も、偉大なこともあれば、平凡なこともある。」

 彼の「言語は、われわれの精神をまとっている目には見えない衣装」という表現が文学的ですが、言語は記号の体系ではなく、ヴェールとなると、言語の定義とは整合性が取れず、論理的ではないのですが。まあ、天才の語ることに間違いはないのですから、このままで宜しいのでしょう。が、しかし、直感的な経験の記録は翻訳可能で、特殊な様式の経験の記録は翻訳不可ということで、シェークスピアの戯曲が深い層での経験で、スウィンバーンの抒情詩は上の層の経験というのは、例えると、ノーベル文学賞を取るような作品は、全ての人間の心の底にある普遍的経験の記録だから翻訳可能で、取れない作品はそうではないから翻訳不可ということなんでしょうか? 或いは、村上春樹の作品は深いから翻訳可能だけれども、司馬遼太郎の作品は深くないから翻訳はできないが、どちらが優れているかの優越はつけられない、ということなのか?
 サピアは、自分で芸術はよく解らないといっている以上、こういうこと、つまり、自らが設定した言語学の研究領域からはみ出ることは言わなければいいのにとは思いますが、如何でしょう。もっとも、私の単なる読みの浅さからの認識の違いかもしれませんが、芸術における美が純粋に言語学的なものであるとは到底思えませんし、そこには、文化的な違いからの美意識や死生観もあるでしょうし、それは言語においても、記号としても存在している、そんな気がするのですが。
 いずれにしても、あの世でレナード・コーエンの歌を聴いたり、あるいは、グレン・グールドのピアノを側で聴いているサピアがコロナ禍でつぶやく私の声など聞こえるはずもありません。コロナ禍が開けたら、出来たら、私は天才の多く住む国を訪ねてみたいなあと妄想しております。
では、この辺で失礼いたします。

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