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Etude (21)「リヨンからの便りー時間とは記憶」

[執筆日: 令和3年3月30日]

 昨日、アフリカからフランスに転勤した、元同僚から近況を知らせるメールが届いておりました。勤務地は、遠藤周作がかつて留学していたリヨンの町。リヨンは、1996年でしたか、リヨン・サミットが開催された地で、私は東京から外国人プレス対応のため、一足先に、H外務報道官とともパリに先乗りし、パリの外国特派員との会食(ギイ・サヴォワというミシュラン三星レストラン等で)などをし、その後リヨンで橋本総理一行を出迎えた思い出深い場所です。陣中見舞いに橋本総理がやってきて、歌舞伎役者のような風貌で、気さくに事務局員に声をかけていた姿が瞼に残っています。煙草を咥えた姿も絵になっていましたね。確か、あの時も、差し入れに木村屋のアンパンを届けてくれていた記憶があります。なんだかんだといいながらも、当時はまだ日本に活力があった時代なんでしょうね。アフリカ向けの援助も活気があったし、外交に夢のようなものがあった時代と言えましょう。
 リヨンの町を見下ろす丘の上に立つ、洒落たフレンチレストランで、当時フランス大使館で孤軍奮闘していたプレス担当チームのキャップと共に、慰労を兼ねた昼食をしたのがつい先日のように思い出されます。そういえば、リヨンはあの永井荷風も滞在した町ですし、リヨンは町自体魅力的ですが、ブルゴーニュ、オーヴェルニュ、ドーフィネ地方は風光明媚なところで、食いしん坊には魅惑的な場所。ピラミッド、ピック、ジョルジュ・ブラン、トロワグロ、オワゾー、等々、語り尽くせない美食三昧のレストランでの思い出を私に与えてくれた地でもあります。南仏は勿論のこと、スイス、イタリアにも近いし、極楽のような場所でしょうが、元同僚は、4年以上もアフリカにいたそうで、文化の違いに戸惑うかもしれませんが、行くたくともいけない深川の住民には、高値の花ではありますが、彼のご多幸を祈りましょう。

 さて、昨日は、利他を考えるための徒然エチュードをしたのですが、高橋昌一郎さん(国学院大学教授)の「20世紀論争史」(光文社新書)を読み終えまして、少しまた、世界認識の知識が増えたような感じを抱いている、つまり、昨日の自分と少し違う自分を見出している杢兵衛です。
 この本は、高橋さんが「おわりに」で書いていますが、個人間の論争の対立としての、ベルクソン対ラッセル、ウィトゲンシュタイン対ポパー、ボーア対アインシュタイン、あるいは、思想的な対立としての、ソーカル対「ポストモダニスト」、チューリング対「反人間機械論」、カーツ対「反科学思想」等をテーマ毎に要約した、思想論争のダイジェスト版のような本に思います。
 この本の良さは解りやすいということがあります、大学生を意識して書かれた文章でありますので、学生にとっては、知の世界の入門的な概説本とも言えます。知的な、科学的な思考力を身につける上で、役立つ本ではないかと思います。他方、私的に記憶に残るであろうと思うのは、コーヒーの歴史書としてかもしれません。凡ての章で、コーヒーにまつわる小話が出てきて、コーヒー好きな高橋さんと未だ半知半解の助手との漫才的な会話も冴えた、エッセイとも言える本として。コーヒーの薀蓄を得る本ではないのでしょうが、コーヒー好きには堪らない本と思います。
 勿論のことでありますが、思想に関した知識も満載です。例えば、「公平とは何か」では、1951年のスタンフォード大学ケネス・アローが証明した「不可能性定理」という単記投票方式のパラドックスともされる「民主主義を完全に満足させるような社会的決定(投票制度)は不可能である」といった民主主義の根幹に係る問題や、「「習得」とは何か」にあるマサチューセッツ工科大学の言語学者ノーム・チョムスキーの「言語獲得装置」の話、「「意志」とは何か」にある意志と意思の違いの話、「「進化」とは何か」にある生物の脳の生い立ちの話、オックスフォード大学のリチャード・ドーキンスが1986年に発表した「盲目の時計職人」の話、そして「「直観」とは何か」にあるアンリ・ベルクソンの時間や直観に関しての考え方に対するバートランド・ラッセルの批判の話等が。まるで時代物小説で剣士同士が戦っているような、そんな物語性も感じます。まさに読んで楽しい本ですので、念のため(無料でここまでPRしなくてもいいのでしょうが)。
 また、以前、ゴルフでお話したプロスペクト理論の関係で言及した、行動経済学の「行動」という冠はつくようになった背景を知ったのは、読書における瓢箪から独楽かもしれません。高橋さんの説明によると、心理学は、1879年に「内観」を基にヴィルヘルム・ヴントが創始したものであるようですが、これに対して、ジョンズ・ポプキンス大学ジョン・ワトソンは、1913年、科学者は、内観(心や意識)という主観的な概念ではなく、客観的な観察に耐える「行動」を研究しなければならないとして行動科学への移行を宣言し、その後欧米では、行動と冠のつく学科が多く見られるようになったという、歴史があったようです。
 科学的知識は、文明人にとって欠くことの出来ないもので、科学的知識は新しければ新しいほど価値が高い(真理に近い)と評価されていますが、他方、芸術・文化では、古いから価値が劣るということはない(縄文時代の土器もそうですし、ラスコー洞窟の壁画も、ダビンチの「モナ・リザ」、「ソクラテスの弁明」、「論語」、「聖書」、「コーラン」、或いはシェークスピアの文学作品等がその例)ということなので、科学だけが凡てではないのですが、昨今は科学万能的な風潮があります(コロナ対策もそうでしょう)。高橋さんは、将来予想として、100年後か、あるいは、それ以上先の将来かは分かりませんが、これまでの人間の行動の長期的傾向からして、人間=脳となって存続するようになり(身体的機能は意味を為さなくなる)、理系的科学人間(地球を捨てて宇宙に住むことを希求する人々)と、文系的な人間(地球の残って地球的文明や、ローカルな文化的なものを享受する人々)とに分化された世界になると。つまり、理系と文系の融合、統合はないと見る訳ですが。
 こうした宇宙から地球の歴史、人類の進化を見るような本を読んだからといって、明日から目の前の景色が変わることはないでしょうが、散りゆく桜を眺めながら、私にとって時間は、一方では確かにヘブライ的に直線的に死に進むものではあるけれども、年年歳歳花相似たりではありませんが、ギリシャ的に円環的に向こうからやって来るものでもあるなあと。そして、ベルクソンやラッセルには笑われるかもしれませんが、時間には自分だけの時間があって、それが人生であり、「時間(人生)は記憶」なんだと思っています。
二木

(なお、昨日、利他の事を書きましたら、再三ご案内の立花希一先生から、ブログにある利他に関連する文章を案内頂きました。利他というと、宗教と無縁でなく、西洋の宗教といえば、キリスト教とユダヤ教が代表格ですが、ユダヤ人の利他の考え方についてとても興味深いことが書かれています。ユダヤ人は、利他の前に、個人としての存在を重視する、そんな話です。他方、日本人は、未だに個人というものが確率していない国ですが、民法にもありますが、倫理の問題、祖先崇拝とも絡んだ上での利他を考える必要性があるようです。ブログ (https://www.kiichiposition.com/) の業績、学術論文16と31の「隣人愛における個人主義の位置」と、「民法, 祖先祭祀条」です。)

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