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Etude (5)「知るというのは、それまでの自分が死んで、生まれ変わること」

[執筆日 : 令和3年3月13日]

「学生たちを教えていてしみじみ思うのだが、彼らは勉強しないという以上に、勉強するという行為の意味を殆ど考えたことがないのではないか、ということです。(中略)自分で一年考えて出てきた結論は、「知るということは根本的にガンの告知だ」ということでした。学生には、「君たちだってガンになることがある。ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見てるだろう」と話してみます。・・・桜が変わったのか。そうではない。それは自分が変わったということに過ぎない。知るというのはそういうことなのです。」
                        養老孟司「バカの壁」


 養老孟司さんは、「バカの壁」が売れてから、何か変わったことがありましたかという、「養老孟司入門」の筆者布施利英さんのエレベーター内での質問に対して「何も変わらないよ」と答えた後、建物の外に出て歩いている時、「母親から子供の頃、言われたんだ。お前は長生きすると、良いことがあるから、長生きするように」と言われたんだと。
 いい話ですねえ。エチュードの2で、日本の賢母のことを書きましたが、偉人にこの母ありです。日本の未来は、賢母比率に依存するとは言いませんが、まあ、そうなんでしょうね。野口英世の母もそうでしょう。夏目漱石は残念ながらそういう運命にはなかったわけですが。
 こうした事、つまり、日本社会の未来は女性次第だということが国民の「共通了解」には多分なっていないから、わたしの本が売れない理由があるるわけですね(苦笑)。その点で、養老孟司さんの本は、本当にまともなことしか書いていないのですが、養老さんの本が売れたことに嫉妬したある人が、自分だってそのくらいの本は書けると言ってきたようで、その時、養老さん珍しく気分を害して「それなら100万部売れるかどうかやってみたらいい」と突っ張ねたとか。養老さんの本は、きちんとした科学的なバックボーンに支えられていることがポイントで、単なる創作的想像的な内容ではないし、文章も匠です。立花隆とは関心対象が違いますが、知の巨人というよりも、論理と情感のバランスの良い巨人なのかなと思います。論理とは、意識・認識という脳が情報を処理し、そしてそれを対外的な「共通了解」としてアウトプットできる知であり、知恵という意味合いではありますが、目には見えない情感を想像する能力も高い人だと思います。
 「バカの壁」という題名ですが、バカとは馬鹿ということで、馬と鹿を区別できていない人から得たもののようで、秋田の男鹿半島の男鹿の名称にまつわる話を小学生の頃にバスガイドが話していたことを思い出したりしましたが、馬の肉と鹿の肉、果たして味の違いを私たちは峻別できるかどうか、やや心もとない訳です。そういう、分かっているつもりで、分かっていないことを懇切丁寧に書いた本が「バカの壁」なんでしょう。
 なお、彼は「学問というのは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業です。それが本当の学問です」と述べておりますが、情報を言葉に置き換えると解りますが、歴史書に遺る言葉は情報としては変わらずに残り続けているということで、それは取りも直さず、学問とは、そういうふうに(言語的な)情報化を追求するものであるということを意味するのでありましょう。
 彼はまた、「結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。そういうつもりで(「バカの壁」で)述べた」としておりますが、「知りたくないことに耳をかさない人間には話が通じない」、「モンテーニュが語っていた常識とは、簡単にいえば「誰が考えてもそうでしょう」といいうことです」とし、人は他人に分かってもらえることに対して悦びを感じる生き物、脳はそういうものであるという事も述べております。
 養老さんのおっしゃること、私はよく分かります。私が分かったこと、或は、発見だと思うことを徒然しても何の反応もないのは、養老さんが言う「共通了解」とはならず、読み手にとって、生まれ変わるような契機とはなっていないということであります。変わらないというのは、しかしながら、あまり良いことではないようにも思えるのですが、その「共通了解」について、養老さんはこんな風に述べています。
「さらにもっとも共通な了解事項を抜き出してくると、「論理」になったり、「論理哲学」になったり、さらに「数学」となったりします」
「人間の脳というのは、こういう順序、つまり出来るだけ多くの人に共通の了解事項を広ていく方向性をもっていて、いわゆる進歩を続けてきました。マスメディアの発達というのは、まさに「共通了解」の広がりそのものということになります」
「多くの人にとって共通了解事項を広げていく。これによって文明が発展してきたはずなのに、ところがもう片方では常に「個性」が大切だとか何とか言ってくるのは話がおかしい」
「個性なんていうには初めから与えられているものであって、それ以上のものでもければ、それ以下のものでもない。・・・・要するに身体が個性的なのです」

人の個性というものは、脳そのものにではなくて、身体にあるという発想が素晴らしいですね。身体だけは瓜二つは今のところないようです。養老さんは、人という存在を、一方に、「脳・意識・人工」、他方に「身体・無意識・自然」とした2つの領域に生きる存在として見ております。ちなみに、西洋ではフロイトが無意識の存在を発見した最初の人であると言われますが、それはありえないというか、遅すぎるというか、遥か昔に仏教(禅などで)では無意識の存在が分かっていたと思いますが、まあ、それは脇におくとして、養老さんは、

「修行とは、身体の統御を完成することである。・・・・型は身体表現であるから、無意識的表現を含んで成立する。無意識的表現は、意識的に真似するわけにはいかない。ともあれ、そっくりそのまま、とりあえず真似してもらうしかない」「型は、身体による普遍的表現だ」「明治以降の日本社会では、こうした身体表現、すなわち型を、徹底的に潰してきた。・・・・しかしそれに伴って、無意識も潰れた。型が喪失したのである」

 と、日本人の個性も身体にあり、そして個性は型にあると諭しているのです。 
 能とか狂言、歌舞伎、日本舞踊といった身体表現、武道もそうですし、絵画の場合もそうかもしれません、楽器の演奏もそうかもしれませんが、この型をコピーすること、完璧に模倣する能力=意識+無意識のコンビネーション力ということだと思います。
 よく私のゴルフ友のメールに、スイングの技術的な課題というか、問題を書いてくる悩み多きゴルファーがいるのですが、彼も私も、まだまだ脳の意識しか使っていない、まさに悟りを得ていないゴルファーということなんですね。
 確か、人間の筋肉にはそれそれの筋肉は脳の司令とは別個に独自に、自律的に働く能力があると習った気がしますが、それ故に、私たちは意識せずとも、左右の足をもつれさせることなく歩行できる訳です。別に、脳が意識して、最初は右足、次は左足を出して、と司令しているわけではないはずです。仮に、歩行が上手くできない人は、脳の認知そのものよりも、筋肉の自律性に問題が多いということです。
 しかし、その機能は無意識な行為になるのです。ゴルフもそうですし、他のスポーツもしかり、芸能しかりで、意識した状態で幾ら稽古していても、いつまでたっても上手くはならないのは、そこが分かっていないからです。
 的を狙う、弓道やアーチェリーは、上達のためには、無なる境地の経験を積まないといけないようですが、まさに、これこそが脳が行動を司令する意識と身体が自律的に表現することを可能にする無意識とが和合した境地でありましょう。
 でありますから、巷にあふれるゴルフの技術論の本、あるいは、ビデオ映像というものは、ある部分では正解というか、誰にでも通用する共通了解もあるですが、書いた本人も、映像に登場する人も、自分の個性である自分の身体にあった技術しか本来は語れないし、表現できない訳で、他人の個性である身体をも斟酌した技術論は不可能だと思います。その結論としての忠告は、技術論の本は信じて読んではいけないということです。逆効果の可能性が大です。
 その点については、ピカソは天才的芸術家と言われますが、養老さんは、
「おそらく彼(ピカソ)は意識的に、絵を描く際に、ノーマルな空間配置の能力を消し去った」と述べ、「ピカソの場合、普通の人間にはいじれない空間配置の能力を自在に脳の中で変えて、絵として表現することが出来た」と述べていますが、布施さんは「トレーニングというのは、脳を磨くというのは、もしかしたら、脳の一部を使わずに、何かを成し遂げるための努力を続ける、ということなのだ」ということを導きだしております。
 天才は普通の人には備わっている脳のある種の能力が欠如し、それを他の能力でもって補ってあまりあるような人ではないかも言われますが、凡人にとって参考になるのは、今度一緒にラウンドする予定の人が書かれたゴルフの本に引用されていた、アニカ・ソレンスタムのコーチ、ピア・ニールソンの人の言葉。それは、ゴルフでは、「思考ボックス」と「実行ボックス」があり、アドレスをする前までが「思考ボックス」で、アドレスした段階からが「実行ボックス」で、アドレスしたら、「何も考えないこと」が大事ということです。
普段の練習では、型を、自分の型を磨き上げることに傾注し、そして、打つ前までは意識を働かせ、アドレスに入ったら、個性である自分の身体能力を最大限に発揮させるためにも、無意識を意識した練習が大切なことではないかと。
 養老孟司さんのお母様が言った言葉、長生きをすれば良いことがあるですが、考えようよっては、人が長生きするのはそのためなんでしょう。私も長生きすれば良いことがあると思っているから、今日も元気に徒然しているのでありましょうし、そして脳は、私がこうして学び続けていることが一番の親孝行ならぬ、脳孝行だと喜んでくれていると思います。                         (了)


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