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モンターニュのつぶやき「それは小さな発見かもしれない、でも、明日への大きな希望である」 [令和3年4月15日]

[執筆日 : 令和3年4月15日]

 日本人の思想と申しますか、むしろ心を表現する言葉には、無が付く言葉が多い気がします。無常、無情、あるいは、無我夢中。何かに心を奪われ、われを忘れる。または、無心。無邪気であること、一切の妄念を離れた心を意味する言葉です。少し難しい言葉では、無明があります。邪見・俗念に囚われて、真理を悟ることができない無知、最も基本的な煩悩と言われます。「無明の闇」という表現もあって、これは煩悩に囚われて悟りを得ない状態で、まあ、私のような煩悩ゴルファーの状態を指すのでしょう。

 さて、先日マスターズで優勝した松山選手の帰国後の記者会見をネットで見ていて、彼が将来、本当の意味で世界的なプレーヤーになるのは、ゴルフの表現力に加えて、言語の表現力をもう少し身につけた方がいいかもしれないなあと思いました。外国の一流というか、超一流のプレーヤーと日本人プレーヤーの違いは、ゴルフそのものの以上に、人間としての深みのある表現をさり気なく語れる、見方を変えると教養の違いがあるように思います。
 技術の違いも、教養の違いもそうそう簡単に身につくものではないでしょうが、人間業とは思えないようなパーフォーマンスを出す人、スポーツマンに限らず、数学者、物理学者もそうだと思いますが、所謂「ゾーンに入っている」、心理学では「フロー」というようですが、その無の状態、自我が離脱している状態を経験していることが知られています。
 松山選手がマスターズで優勝できた要因が色々と書かれていますが、開催前に、今週は良さそうだという予感があったこと、そしてプレーへの真剣さ、集中力が物凄く高まっていたこと、自分を越えた別の人間にでも操られているかのように、無の状態でプレーできたこと、そして、なんといっても、ボールが神様の手によって、アクシデントになりそうでならないように、運ばれていったという、運があったということでしょう。
でも、少し意地悪なことを言えば、皆さんお気づきになっていたかどうかわかりませんが、予選のラウンドの参加者は、例年より30人以上は少なかった(80名程度)という、ライバルの不参加が看取されました。強敵が早々と予選で姿を消したことも幸いしたでしょう。後は、まあ、タイガーの不参加が意外に大きいかもしれませんね。次回のメジャー大会で、今回参加していない選手や、予選で敗退した選手が一堂に会して競う時、真価が問われるでしょう。


 昨日のエチュードで西田幾多郎を徒然して、鈴木大拙も多分そうですが、座禅の修行で、ゾーンに入った経験をしているように思えますが、日本人の心というものを考えた人では、世界的に著名な数学者岡潔さんがいます。岡さんの本は、「春宵十話」(初版1963年、現在光文社文庫)、「紫の火花」(1964年、朝日文庫)、「春風夏雨」(1970年、角川ソフィア文庫)、山折哲雄編「夜雨の声」(20141年、角川ソフィア文庫)、森田真生編「数学する人生」(2019年、新潮社文庫)を読んでおりますが、日本人とはいかなる存在であるかを考える上で色々と示唆に富むことが書かれております。
 ちなみに、岡さんが惹かれる人というのは、松尾芭蕉といった俳人が多いようですが、数学と芸術の類似点として、「数学の目標は真の中における調和であり、芸術の目標は美の中における調和である。どちらも調和という形で認められるという点で共通しており、そこに働いているのが情緒であるということも同じである」としながら、タバコの吸い方が違うとして、「芸術ではタバコをのむとき、目は過去にむいている(それまでのものがこれでいいかを思案する)が、数学では目は常に未来をむいているので、うまく書けたかどうかはそれ以後どう書くかが決定する」と。
 ゴルファーは、どうでしょうね。それまでの成功や失敗に囚われると、先が思いやられませんか(笑い)。ということで、ゴルファーは、芸術家であるよりも、数学者に似ているんですねえ。これは私にとっての興味深い発見であります。


 岡さんの本の真骨頂は、自分とは何かを語っていることで、本当の自分(真我)、あるいは、それを越えたところにある主宰者の存在に気がつくことを力説していることで、特に日本人というのは、他の民族よりも、そうした真我や主宰者を知ることが出来る「心」「情」があることを強調している点でしょう。
 小我と大我、要するに自我である小我というのは、無明(煩悩)の塊であって、コントロールすることは出来るけれども、無くすことは出来ない、本当の自分である大我を知るためには、主宰者(永遠に存在していると考えられる人の無意識下に存在する)を知ることが不可欠であるとして、自我が消える状態、数学の場合には、そのことだけを考えている状態(ゾーン状態)になりきる経験が必要であるとしています。禅では、その体験を生むのが座禅ですが、岡さんの場合は、座禅はしないけれども、ある問題を2年位ずっと考え続けることが出来るようで、並外れた集中力と加えて継続力をもっていた人で、2年考えると本が書けると言っています。その辺が岡さんの天才といわれる所以ではありますが。


 また、岡さんは、日本人と西洋人との違いを、心の存在、情の存在において見ているのですが、日本人のものの考え方と、西欧人のものの考え方の違いを、昨日御紹介した佐伯啓思が述べていましたが、岡さんによれば、日本人の脳は西欧人の脳とはどうも違うようです。岡さんは、こんなことを語っています。
「西洋人は自然が映像であることを知らないし、意識を通さないでわかる心があるということも知らない。これは完全な間違いである。それなのに愚かな日本人は、これをそのまま新教育に採り入れた」とし、「日本人及び東洋人と西洋人は、大脳生理が違っているとしか思えない。(中略)日本人や東洋人は頭頂葉から後頭葉、側頭葉を経て前頭葉へいく経路で心が流れている。前頭葉は外面的行為および意識的内面的行為をつかさどるものである。頭頂葉はこの前頭葉に命令をくだすものである。それが心の流れである(心の中枢は人体にあっては前頭葉にある)。(中略)西洋人の場合は、前回りして、頭頂葉、運動領、前頭葉に流れていると思う。ところが運動領というのは全身の意思的運動を司るところであるから、非常に無明が濃い。それでここを通ると(心の)流れが地下をくぐったようなことになる。そのため西洋人は頭頂葉の知・情・意とか悲願とかが潜在意識的にしかわからない。日本人や東洋人の場合には、川の地上を流れるようになっているから、源の有り様がわかるのである。その代わり米人デューイ流に自我を全く抑止しないで教育すると、無明が後頭葉へとたまってしまうのである」
 岡さんは、無明は黴菌のようなもので、これが日本人や東洋人の場合、後頭葉に溜まると心を腐敗させるが、西欧人の場合には、運動領の地下をくぐって行くので、無明が深い心には入らないらしい、と説明し、曹洞宗の人たちで、道元の「正法眼蔵」を体取している人にはよく解ってもらえると思うと、結語しております。
 これを読んでも解らない人(私もですが)は、西洋人ということにしておきましょう(笑い)。

 「春風夏雨」の「解説」を脳科学者のアッハーで有名な茂木健一郎さんが書いておりますが、アメリカの心理学者チクセントミハイという人の「フロー」研究者のことに言及して、岡潔さんは、この「フロー」を知っている人であるとしています。「フロー」とは、「時間を忘れ、我も忘れ、そして何のためにそれをしていたのかの目的自体も忘れ、行為そのものが喜びとなって、従って報酬が得られなくても、行為することをやめない」ということの状態であります。チクセントミハイさんは、「フロー」の研究をしたきっかけは、「幸福の条件」を求めてのことだったようです。戦争など、苦しい状況におかれても、なぜか前向きで、明るい姿勢を失わない人たちがいる、その共通点を探る中で、「フロー」の概念にたどり着いたということのようです。
 どうです、どこか似ていませんか。私のモンターニュのつぶやき、そしてEtudeは。時間を忘れ、我を忘れ、何のために書いているかも忘れ、報酬がなくても、書くことだけが楽しくなっている私の徒然メール。
 小さな発見、でも、明日への大きな希望となる出会いが本にはあるからこそ、私は本を読み続け、そして徒然しているのでしょうね。皆様の今日が、良いことがあったと思える日でありますよう。

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