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Etude (3)「人はどうあるべきか」

[執筆日 : 令和3年3月10日] 

「女が驕慢の頂点にのぼりつめてしまうと、もう決して、わが身のことをかえりみなくなる。物事が正しくみえなくちゃうんだな。自己中心的で、自分の目先のことしか見えなくなって。大局を見るなどということはまったくできない。これは、まあ、女性の特質なのだけれども・・・・。」池波正太郎「男の系譜」

 新たな徒然、Etudeエチュード、第一回は、思考すべきテーマに触れながら、人生は走馬灯のように過ぎ去るものであることを、或は人の度量というものを「忖度なしに人を褒めることが出来る人」とし、第二回は、自己を如何に表現するかの観点から、辰野隆のこと、フランスに縁のあった人に触れながら、薄幸の詩人、石川啄木の描く幸せそうな日本男性の姿などを引用しつつ、行きつ戻りつのような日本について書きましたが、今日第三回目は、その流れを受けて、日本の女性のことを書いてみました。
 なお、冒頭の池波正太郎の言葉を、女性蔑視、女性に対する偏見だと見る方は、以下の文章を読む必要はないと思いますが、私的にいえば、そういう方は歴史を学ぼうとはしない、あるいは、自分は常に正しいと思っている人だと思っておりますので、念のため。
 池波正太郎は、女性が驕り高ぶって権力の頂点に上ると、自分の行動が正しいとか間違っているという冷静な、客観的な、或は大局的な判断が出来なくなるのは本性であるからと言っている訳ですが、男性も似たりよったりで、要は、女性だけの問題ではないのですが、池波正太郎が言いたかったのは、多分、立派な女性というのは、社会的な評価に左右されずにきちんとやるべき家の中の勤めを果たしていることにあるという認識で、その例として、豊臣秀吉の母や、加藤清正の母を高く評価しているのだと思います。この二人の賢母に付け加えるとすれば、福沢諭吉の母もそうであります。池波正太郎は、最終的に、男の幸せと女の幸せは、本質的に違うんじゃないのかを問っているようにも思えます。
 そういう視点で見ると、日本の男性、女性の幸せ観は、やはり違うと思うんですね。ちなみに、先日、内閣広報官をお辞めになった山田さんという方は、ある学者から見ると、甘え上手、美人(可愛い)、周りがエリートという3つの条件があると、所謂ゴチ体質になるようです。また、彼女は、東京学芸大付属という、彼女が大学を受けた頃は、年に100人ほどの東大合格者を出していた高校を出ていますが、彼女は早稲田に入り、後に東大を受け直してはいますが、不合格。霞が関は東大閥が幅を利かす世界であり、彼女は傍流的な私大出ということで、彼女の処世術は、飲み会を断らないというものですが、彼女は「コンプレックスを抱いたうわべだけのエリート」であったということのようです。
 私的に言えば、彼女は偉い人(出世のためになりそうな人)なら誰にでしっぽを振っていたような存在で、そこは忠犬ハチ公とは違います。でも、幸せな役人人生だったんじゃないですかね。役人の出世には、所謂忖度能力が求められるかどうか分かりませんが、概ね、戦後は、要領の良い人が出世している傾向はあるでしょう、特に対政治家との関係では。

 学校で学ぶ歴史の教科書、あるいは、参考書を読んでも、日本人の特質、男女の特質などは分からないし、そもそもそんなことを学んでいなくても、日本社会で働くことが出来た訳ですが、これからはそうも行かなくなってきた感のある令和の時代。男と女の「らしさ」も「本性」も無視して、兎にも角にも、数字併せが優先しているような今の風潮、変だと思うのは私だけではないでしょう。
 男女間の問題を、幸せという、個人差のあ価値観の問題として考えると、令和の時代において、人の幸せは、職業というものにが大きく左右される傾向がありますね。以前言及した、鷲田清一さんの「お金を稼ぐこと、他人の役に立つこと、自己実現すること」の3要素ですが、昔は多分、毎日ご飯を食べるだけでも十分に幸せで、お金を稼ぐことができる仕事があれば、それで満足できたのでしょうが、時代は人をして贅沢にし、幸せというものは、第一にお金を稼ぐのではなく、最後の自己実現を第一に実現できることから始まるというのが、今の若者ではないでしょうか。
 なんとも贅沢な話だなあと思います、年金生活者から見れば。私も喉から手が出るくらいにお金はほしいけど、自己実現を優先して、仕事を選り好みするというプロセスは、幸せへの近道なんでしょうか。クエスチョンですよね。

 そこで、考えるヒントは、学歴というか、教育に投資した経費と、その後の職業で得られる収益の相関関係を考えてみるというのが、経済学的に正しいアプローチでしょう。ただし、それを考える前提として、私達が生きる世界が、どんな世界であるか、どんな原理原則で出来ている社会であるかを理解することが不可欠であります。寝ないで考えたというか、歩きながら考えたのは、人類は、神とそれ以外の世界を分けて、それ以外に属する人間の社会においては、共同体のマネージメントの一つの技術として、(平等な市民に限定された)民主主義を考え出し、その後、資本主義を生み出して行くのですが、うさぎと亀ではありませんが、先頭を走っていたはずのうさぎである平等を掲げる民主主義が途中で居眠りをし、後からきた亀である自由を掲げる資本主義が民主主義を追い越して、弱肉強食的(重商主義的帝国主義的)資本主義が全ての価値に優先して世界を支配するようになり、結果世界的な規模の戦争が発生したため、弱肉強食の世界を(強者に都合の良いように)ルール化しないといけないという反省に立って、理想的に、強きをくじき、弱きを助け、そして博愛の精神に基づいた、社会福祉的国家政策を取り入れた、慈母的(手弱女的)なる寛容の精神の民主主義と、益荒男的(生き馬の目を抜く的)な競争市場を基本とする資本主義とが両立しうるような、しかし、競争原理を優先する資本主義側に傾いている社会に日本はなっている、というのが私の単純化した歴史観です。
 ですから、社会に出る、社会で働くというのは、どういうことかと言えば、競争の場である「市場という戦いの場所」に参加するということです、かつては男性のみに許されていた戦場に参加するということ。男もすなる戦いに大和撫子が参加するということであります。之を履き違えた議論は、私には何の関心もありません。
 つまり、男性に限らず、女性であろうとも、日本社会で働くことは、熾烈な競争という場所で、お金を稼ぐということで、戦い好きな男性、戦い好きな女性にとっては魅力的ですが、戦うことが、競争が、勝負事が嫌いな人には、生きづらいのが資本主義なんです。能力、適性よりも、人と戦うことが好きな嫌いかという。違いますか?
 
 では、女性の特性とは何でしょうか? 進学に関して言えば、いまだに日本には女子大があります。男子大は多分ないでしょう。男子の高校はありますが。令和の時代においても、女子大があることにおいて、私は、日本という国、社会はそれほどマスコミが騒ぐ程に、男女の差別はないと思っているのです。専業主婦の比率は、令和の時代では大分低いでしょうが、男が外で働いて、女が家を守るという、単純で明快な分担方式で、縄文時代から日本社会は成り立って来たと思います。つまり、男女間には、垂直的な力の構造はない社会ということです。家事と子供の教育は女が担うというのは、それが一番効率が良かったからでありましょう。エマニュエル・トッドの研究にもあるように、日本は基本的に母系社会でありましょう。違いが見られたのは、武士の場合であって、明治以降はその武家社会に見られる父系的なものを神国日本の富国強兵政策のために全面に出し、跡取りは常に男子が優先される(=民間会社は右に習う)という虚構的日本社会が戦後のある時期まで続いた訳です。というか、そうではないのでしょうか。
 武家においても、家の家計を預かるのは常に妻である女性であり、マネージメントというものは、女性の方が上手なんです。子供の育成もしかり。臨機応変ですから。男性は一般的には下手です。上手な人もいますが、そういう人は女性的な人です。日本の男性は長きに渡り、外の敵と戦うことに幸せを感ずる生き物で、戦いが嫌いな男性は、戦いのない場所で生きるしかありません(戦いの無い場所、そうですね、医者とか、学校の先生と言った聖職でしょうか。或は専業の主夫か。作家も、また芸術系もそうですね。)。ですから、女性が社会に出て働く、働き続けるということは、そうした外の敵と戦うことにを向いているのか、いないのかということになるでしょう。仕事は、スポーツのようなもので、運動が得意な人もいれば、苦手で嫌いな人もいるでしょう。またスポーツは戦いですから、戦いが嫌いな男性も女性もいます。一概に男性だからとか、女性だからとは言えません。ちなみに、うちの家内は勝負事が嫌いのようで、資本主義の戦いの場である労働市場での仕事も、また、オリンピックに代表されるスポーツの世界にはほとんど関心がなく、それ故にずっと専業主婦をしている訳です。本人がそれで幸せなら私がとやかく言う話でもありませんし。

 でありますから、国会議員の女性の比率や閣僚の比率、更には一部上場企業の女性幹部の比率、更には、スポーツ関係団体の女性の理事や役員の比率、或は、東大の合格者における女性の比率といった指標を使うことに、どこか眉唾的なものを感ずるのです。こうした職業や大学は、男性でもなることも、また入学することも難しい訳ですし、99%以上の日本国民にはまったくもって関係のない数字だと思うのです。
 日本での問題であり、課題は、男女の差別といった問題ではなくて、一人一人が人生の自由な選択をするために、高いお金をつぎ込んで学んでいる学校での勉強(+塾や予備校等での追加的投資)、特に大学で学ぶことのメリットをもう少し、現状に即し、かつ、中長期的視点に立って、本質的な対策を講ずることだと思うのですね。日本という国は、コロナ対策もそうですが、どこか中途半端なんです。学校教育も、形も大きさもそろったきれいな大根のような生徒を仕上げるのは確かに上手いシステムでしょうが、個性的な、または、ずば抜けて出来る天才的な若者を育てる(例えば、フランスのような)のは苦手。バートランド・ラッセルがかつて言ったように、日本の教育システムはあくまでも、今ある産業構造に上手く適合したものではあるけれども、1990年代以降特に、学校で習ったことの減価償却期間が短いというか、役に立つ期間が短く、世の中の早い変化に臨機応変に対応できていないと思うのです。教育の話は、後日、啄木の話でまとめるとして、今日は、男にもそして女にも共通すると思われる本質的なことを、日本社会で働くこと、そして生きるということについての関連で、池波正太郎の言葉を御紹介して、これからの日本におけるジャンダーの問題と課題を考える機会になれたら幸です。

「外国ならいいけれど、日本人は日本人らしい人間が育ってゆかなければ、国際的にも珍重されないですよ。国際的に珍重されるということは、その国らしいということに尽きるわけですから。せめて小学校だけでも、だから男女別に教育したほうがいいと思いますね。中学校まででもいい。別にして。高校から一緒にしたら、ある程度のお互いの神秘的なもの、男に対するあこがれ、女に対するあこがれをもつようになるんじゃないかと思う・・・・。」

「学校を卒業した途端に、先に博士になっておこう、そればかり考えるから、途中の段階もなにも考えない。プロセスによって自分を鍛えてゆこうとか、プロセスによって自分がいろいろなものを得ようということがない。だから道がみつからないのですよ。小説書く志望の人でもそうですよ。すぐ流行作家になりたい、原稿を金にしたい、それでやっているんだから、いまは」

「いまの人は仕事に身銭を切らないねえ。職場で毎日お茶をいれてくれる人がいるでしょう。そういう人に盆暮れにでも心づけをする人が、まあない。いつもおいしいお茶をありがとう・・・・。そういってちょっと心づけをする、こりゃあ違いますよ、次の日から。当然その人に一番先にサービスする。そうすると気分が違う。気分が違えば仕事のはかどりがまるで違ってくる」

「いまの政治家は、だから駄目なんです。いつもアカぬけないというのは、つまりそこなんですよ。ぼくは、卑俗な例かもしれないけれど、一週間に一度閣僚は映画を見たらいいと思う。然るべき人に選んでもらって。外国映画というものは、世界で一番新しいテーマというものを、すべて才能のある芸術家が何人も集まってつくるものがから、ものすごい。その中でも日本に来るものは、必ず選びぬかれたものが来るんだから、そういうものを政治家が見ないということはおかしいと思うな。せめて映画でも見るべきだと思う、いい外国映画をね」

「自分の意志が通らないときに死を覚悟でやるんだね。それが武士というものだった。内匠頭の刃傷は、そういうことをするのはバカな人間だということになりかけている時代に起きた。官僚の時代だから、綱吉のころは、もう。官僚社会というのは、自分の生命をかけて何かをするということじゃない。如何に自分の生命を長引かせるかということのために何かをする。それが官僚の本性なんだ。」

「これは歴史家がまだ見逃しているんじゃないかと思うんですがね。人間というのは、年少のころから若い時代に押しひしがれた下積みの生活をしているとね、自分が権力の座に着いたときに、反動的にその力をふるうんだ。これは井伊大老のみならず、一般の人みんなにあてはまることです。恐ろしんだよ、これは。年少のころに鬱屈したものが、何かの拍子にバーとふき出してくる。それは本人でさえ無意識のうちにすることなんだ」

「当事者というのは、自分のことはわからないのなんだ。自分で自分のことはわからなくても、他人のことはわかる。これが人間ですよ。同時に、渦中にあるときにはわからないんだよ」(了)

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