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Etude (2)「自己を語るために必要なものとは」

[執筆日: 令和3年3月10日]

 昨年亡くなられた日本語学者の鈴木孝夫さんは生前、日本人は「地上ユートピア主義」であることを指摘していたと、井上ひさし「日本語教室」に言及がありました。「地上ユートピア主義」というのは、日本人は日本のことを一番だとは思っていない、何処かこの地球上にもっといいところはないかと思っている人々であるということです。確かに、そういう面はあるでしょう。1970年代以降の日本人の海外旅行ブームはまさにそれを示す現象。しかしながら、それは取りも直さず、自分たちで日本を世界で一番いい国、或は住んでいる町を例えば、パリやニューヨークのような町にしようとは思っていないことを示すとも言えます。もう少し悲観的に申せば、外国から得た知識や、海外での生活経験が日本ではまったくもって役に立たない、そういうことにもなるのではないかと。
 学問も然り、読書もしかり。諸外国の最先端の知識、思想も含めて好奇心の塊のような日本人は、豪華絢爛なフランス料理、宮廷中国料理を食べるが如しに貪欲に食べてきた訳ですが、いざ、日々の我が家の食卓を見ると、なんとも質素で、豪華さなど微塵もない、健康的ではあるが、貧弱な料理は変わらず。何のための海外旅行、何のための海外留学、何のための外国文学の読書なのか、況んや日本での英文学、仏文学の意味は何であるのかと。

 と、大きなクエスチョンマークについては、追々考えるとして、薀蓄的な話をまずおひとつ。
 日本人ではじめての本格的なフランス文学の先生といっていいのでしょうが、東大で日本人以外でフランス文学を初めて教えた辰野隆(1888-1964、建築家の辰野金吾の息子)は、谷崎潤一郎(1886-1965)とは旧東京府立一中、現日比谷高校で同窓で、終生親友であったようですが、彼の「忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎」(中公文庫)を読んでおります。彼は、1921年から2年間、フランスで留学し、門下生には、渡辺一夫、小林秀雄、今日出海、三好達治、中村光彦、森有正(1911-1976)等、錚々たる多数の異才を輩出した、日本のフランス文学の先駆者の様な方。この時期、西の横綱の京都大学の太宰施門(岡山出身、1889-1974)という方がやはりフランス留学後に、助教授として京大でフランス文学の講座を開講しております。日本では、東京の東大、慶応、上智、明治の大学の仏文が有名ですが、京都の京大にも素晴らしい先生がおりましたし、桑原武夫はその一人です。(すいません、早稲田の仏文のことはよくは知りませんので)。
 この時期は、ご案内のポール・クローデルが駐日大使だった時期にも符合するわけですが、明治、大正、昭和初期は、多くの知識人がフランスに留学していたようで、彼らは、まさにユートピアをフランスに求めに出かけて行ったということかもしれませんが、それだけのエネルギーが日本人にあったということかもしれません。令和の時代は、日本の外にユートピアを探すような、冒険心と好奇心を兼ね備えた人はどうも、少ないように思えます。
 大きな括りとしては、明治から昭和初頭にフランス留学した、或は移住した第一世代(西園寺公望、柳沢健、大杉栄、松尾邦之助、小松清、文学者では、永井荷風、島崎藤村、木下杢太郎、林芙美子、金子光晴他、画家の藤田嗣治等)があって、戦後、日本が主権を回復した後の第二世代(岡本太郎、森有正、加藤周一、渡辺守章、芳賀徹、高階秀爾、安藤忠雄、蓮實重彦、福井憲彦等。多くの日本人は巴里を拠点としている(ストラスブールに留学した日本人研究者も多い)が、作家の遠藤周作はリヨン(大学))があります。
 そうした人の中で、私も多少知っていた「大君の使節」の著者で比較文学者の芳賀徹さんが昨年春に亡くなっていることを先日知って、大変驚きました。一昨年、日仏会館の催しものの際に、元気そうな姿でご挨拶をされていましたので。この時は、確か、美術評論家の高階秀爾さんもお見かけしましたが、フランスの美は多くの芸術関係者、ファッション関係者も含めて、今も引きつけておりますし、所謂「磁場の力」の魅力は失せてはいないと思いますが、フランスに対する日本人のユートピア感は減じているように思います。ここには小さなクエスチョンマークが付きますね。
 ちなみに、谷崎潤一郎は79歳の春に闘病生活をし、退院後、誕生日にシャンパンを飲み、好物の「ぼたん鱧」を食べたようですが、翌朝に血尿を見て、腎不全と診断され、あの世へ参ったようですが、最後の最後まで生きることに執着した人のようであります。

 フランスに魅せられた人々のことはまたいつかご案内するかもしれませんが、辰野隆の「忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎」は、恩師のことや友人との交友関係、日本人文学者のことなどを書いた軽妙な随筆。フランスのエスプリが効いた心地良い読み物なのですが、彼は日本の近代文学の四天王として、幸田露伴、森鴎外、夏目漱石、そして谷崎潤一郎を挙げておりましたが、詩人の日夏耿之介(1890-1971、長野出身)との交友にも言及あり、日夏の詩を高校の時に読んで、深く感動したことを思い出しておりました。
 興味深いのは、辰野の漱石の作品に関しての分析で、彼は「ぼっちゃん」を3度読んでいるようですが、同じ小説を3度読むというのは、漱石にとってなんとも嬉しいことではないかと。漱石のこと、寺田寅彦(吉村冬彦)のこと、斎藤緑雨のこと、長谷川如是閑のこと等にご関心の有る方にとって読み応えのある文章ですので、これも冥土の土産話の触りに使えるかもしれません。
 なお、これも一つのクエスチョンになるのでしょうが、辰野の本を読むに、恩師から、或は友人から、または漱石であったり、露伴であったり、その名をしられた巨匠や偉人との出逢いで彼が何を得たかという面から読むと、例えば彼の研究テーマであり、大学での職業として必要とされていた仏文学そのものに対しての啓蒙というか、啓発への言及は限りなく少なく、出逢った人から受けた「薫陶」が一番の宝物であるかのように書いていることです。つまり、辰野にとっては恩師でも、または友人でもそうですが、その人の真実の姿、人間の本性に触れるような出逢いにこそが学ぶことの本質があると語っていることに、刮目させられるのです。学校で学ぶことの意味を、この辰野の本から示唆される訳ですが、では、一体全体、私たちは、何から人間の本質を、本性を学べるかと言えば、それは、私が常々語っているように、「文学」しかないのです。それ故に、大学という最高学府で文学が学問として今も存続している最大のレゾン・デートルではないかと。そういう文学作品に出逢い、そして味わえる時期は、勿論、心の若さ次第ですが、やはり未知なるものと遭遇するであろう10代後半から20代前半に限られるとも言えましょう。人生が100年というのはまやかしで、文学(芸術というか)に触れないで生きる時間を果たして人生であると言えるのかと。
 それともう一つの示唆は、前にも永井荷風の話で書きましたが、この時期のインテリは、おしなべて皆漢文の素養が高いこと。漢字というのは、私は不勉強者でしたので、語彙が限られるのですが、人の感情もそうですが、存在するもの、思想という目に見えない抽象的な存在も、微妙なニュアンスを峻別する言葉があって初めてそれを受容し、咀嚼し、消化し、栄養素として体内(脳も含め)で活用できる訳です。そういう意味で、漢字というのは優れた培養的導管的な表現形態で、その漢字をマスターしていたが故に、辰野もそうですし、荷風もフランス語の習得がスムーズにできたし、漱石の英語習得も出来たと私は思うのです。
 大凡の意味合いしか表現できない曖昧な語彙が増えているのが今の日本語の現状でしょうが、これは、自らの考えを表現する上でも、また外国語習得のためにも大きな障害になると思うのです。言語の習得は知識(技術)、思想の習得でもありますが、辰野の文章を読みながら、なんと私は漢字を知らないのだろうと、暗澹な気持ちになりながら、辞書で調べておりました。ちなみに、前回ご案内した池波正太郎の「男の系譜」の解説を書いていた八尋瞬右の文に、「面晤」という単語があって、大体推測は出来ていましたが、面会するという意味になることを知って、結局、日本人自身が日本語をどのようにしようとするかで日本人も日本社会も変わりうる存在なのではないかとも思ったのでした。まあ、これもクエスチョンの一つではありますが。

 今日はクエスチョンだらけになってしまいましたが、最後に申し上げたいのは、前回ご案内した代用教員でもあった、以下の石川啄木の散文に見られるような素敵な日本人が令和の時代では益々稀有になっていることの理由を考える機会としていただけると、杢兵衛、物書きとして冥利に尽きる、ということでございます。

「数寄屋橋で電車を降りると、出社の時刻までには、まだ半時間の余裕があった。不図、あの物静かな銀座の裏通りを歩いて見る気になった。(中略)
並木!私は並木が好きだ。
と。その並木の下を、高価な焦茶色の外套を着た一人の老紳士が、太目の洋杖(ステッキ)を敷石に鳴らしつつ、静かに行きつ戻りつしていた。その様子は、人を待合わせしているようにも、又、何の用もないようにも見えた。背は高くはなかったが、すらりとして、我々の時代の日本の富有な老人によくある、せせこましい、或はだらしのない、或は辛うじて生きているような、或は人を凌ぐような不愉快な体つきではなかった。緩やかに運ばれる赤靴が、軽そうであった。行き過ぎる時に、高い葉巻の香が私の顔に靡いた。笑顔が、ひとりでに私の口元に浮かんだ。
「幸福!」と私は心の中で言った。老紳士の顔には、適度に働いてきた人の柔らな満足の表情があった。葉巻を咥えた口を覆うようになった髭は、半分以上は白かった。(中略)
日本が現在の富―物質的にも理想的にも―を得るためには、今までにも随分過度の努力を要した。この上更に何日(いつ)までこんな激しい戦いを戦わなければならぬのかと思うと、ちょうど夏の初めのめっきりと暑さを感じた日に、むさ苦しい室の中で真夏の酷暑を思いやるような心持がする。」
石川啄木「スバル」第1巻第12号 明治42年12月1日「きれぎれに心に浮かんだ感じと回想」

(了)

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