モンターニュの折々の言葉 373「私という存在(個)は、宇宙の一部として与えられた存在なのか、それとも私という存在から宇宙という全体はできているのだろうか」 [令和5年4月22日]

「田中角栄なんていうのは、なりゆきでやっているだけで本質的に関心があるわけではないのです。ぼくが育った家庭が、両親ともに無教会派のクリスチャンだったもので、子供のときから、神だの人間存在だのということを考えながら育ってきた。ぼくは幾つになっても哲学青年みたいなところがあって、哲学の永遠のテーマであるこの世界の存在や人間存在にかかわる幾つかの根本命題からいまだに逃れきれていないところがあるわけです。(中略)ぼく自身は宗教をどうみているかというと、そうとう長期にわたって、キリスト教の呪縛から逃れられなかったですね。だから哲学にのめりこんだみたいな側面もある。なかなか逃れられなかったけれども、かといって信者になろうという決心もつかない。その辺で悩んでいたものがあるとき、スパッと迷いが切れた。それは、イスラエルにいって、あの辺の東方教会のキリスト教を見てからなんです。あれは我々が日本で知っているキリスト教とは全くちがうもので、仏教の密教に近い要素があるんですよ。僧侶と信者の行動様式を見て、これはこの地方の土着宗教なんだということがわかる。なんだそうだったかのと思いました。」立花隆の言葉

司馬遼太郎「八人との対話」の立花隆との対話「宇宙飛行士と空海

 立花隆さんが、宇宙飛行士とインタビューをした際に、彼らは一様に「神の手なしに単なる偶然でかくも美しい世界(宇宙)ができたたずがない」と述べていたようですが、彼らはまた、宇宙体験の前後では、すっかり人間がかわってしまった人も少ないようですね。宇宙体験ではありませんが、似ている体験に砂漠体験があるようで、砂漠体験を立花さんは、「生命はここにあるけれども、あとはずーっと死の空間であった」と言っていて、そんな怖い場所には行きたくないなあと思うのです。なお、宇宙飛行士たちは、神が宇宙を作ったという実感を持ちながらも、宇宙で神には出会わなかったとも言っております。

 立花さんの宇宙体験と、そして宗教の話に触発された訳ではないのですが、今日は、「私という存在は、宇宙の一部なのか、それとも、私という個から宇宙ができているのか」なんていう哲学的思考に耽っておりました。そして、その合間に、ネットで、色々な数字を検索して、時間が過ぎてしまいましたが、調べたのは、世界の人口、世界の経済規模、言語人口の内訳等などを。意外だったのは、例えば国民所得のことで、よく日本は世界の経済大国で3番目だと言いますが、数字を見ると、ギリギリ3番目という感じで、1位と2位の米国、中国の経済規模の5分のⅠ、あるいは4分の一の規模でしかなく、日本以下はどんぐりの背比べ状態。表彰台でメダルがもらえたからといっても、これじゃあ、あまり大きな顔はできませんよね。それと、一人あたりのGDPに関して言えば、世界の27位で、G7の中では、ビリが28位のイタリアですが、日本はブービーじゃないですか。所謂、所得格差を示すジニ係数に関しては、G7では、日本が5位で、後ろは、昔から格差のあった大国の英国と米国。どうも、日本は国の経済規模も、個々人の所得も逓減し、逆に格差は拡大している、あまり褒められた国ではなくなって来ている感があります。

 こういうどん詰まり状態の日本ですが、活路を見出そうとするのは、インバウンド。インバウンドの話はまたいつかということですが、私はノンアルコールの飲み物で一番美味しいと感じるのは、フランスのコーヒー、エスプレッソ。イタリアのはやや濃すぎる。アメリカンは美味しいとは全然思わない。宗教というのは、司馬遼太郎と立花隆の対話にあるような、グローバル化すると、アメリカン的になって、しかし、土着的で密教的であれば、エスプレッソに。と、私は思うのです。二大派閥という言い方は不謹慎でしょうが、カトリックはどこか土着的な感じがしないでもないけれども、聖書中心のプロテスタントは、グローバル化されていて、味が薄いような。カトリックは日本の浄土真宗に似ているという人もおりますが、宇宙から見たら、そんな違いもないのかもしれませんが。

 ところで、今地方選挙が佳境に入っておりますが、政治における民主主義というのは、政党によって実現される訳です。区議会選挙もしかり。無所属の立候補者は、現代社会においては、政治的な影響力を十分には果たし得ないでしょう。勿論立派な方もいますが、政治は一番大きな集団によって成される訳ですから、政権に組みしない政治家には限界があります。それはそれとして、区議会選挙でも、候補者は所属政党を連呼する訳です。そして、区の問題は殆ど語らずに、日本の政治・経済の問題を語る訳です。なんなんでしょうね、日本の選挙というのは。地方議会は地方の問題を解決するのが本質だと思うけれども、まるで国政のミニチュアが地方政治のような。つまり、先ず国会があって、その一分子、一要素としての地方議会があるというのが、日本の政治構造。これは、国という大きな細胞があって、その細胞から一部が分与されたか、あるいは分裂してできたのが地方ということなのかなあと。

 上意下達的な成合が日本の政治なのかなあと思うのですが、如何でしょうか。政治だけではなく、様々な領域で、どうも、日本という国は、最上位に位置するものから、徐々に下位にあるものが出来上がっているような気がするのです。これは、ある意味で、一神教的な世界観でしょう。神のある部分が人間になったとすれば。個人が集まって小さな社会ができ、そうした幾つもの社会がまた集まって、国や、そして世界ができるという、個人が基本で、個があるから全体が生れるという発想ではありませんよね。

 どうなんでしょう。日本という国は、世界というのは、あるいは宇宙でもいいですが、初めに個(人)の存在があるから生れるものなのか。人もそうですし、国といった実態のない虚構物も、そして、思想もそうですが、全体があるから、固有のものが、言わば土着的な人間や、思想というものが生まれるものなのかどうなのか。その答えがわからないまま、今日も終えそうであります。どうも、失礼しました。


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