モンターニュの折々の言葉 365「ちょっと怖い話」 [令和5年4月13日]

「幸福とは他人の不幸を眺めることから生ずる気持ちよい感覚」

ピアス「悪魔の事典」

 昨晩、これだけの同期が集まったのは、いつ以来のことかなあと思ったのですが、茗荷谷にあった外務省研修所で出会い、そして、1年ほどの本省勤務をし、それぞれが語学研修のために海外に旅立ってからは一度も会ったことがないような同期もおりましたが、爾来40年を越える時間は、お互いの顔に深い皺と幾多の染みを刻んでおりました。
おっとなかなか、文学的な、洒落たフレーズ、柄にもないのですが、外務省の同期が15名、赤坂見附駅界隈にある中華料理屋に集合し、懐かしの再会を得たということでありました。今回は、2020年、2021年、2022年、そして今年3月をもって外務省を定年退職した同期の有志の集まりでしたが、早いもので、私も役所人間でなくなって、3年がすぎ、立派な年金生活者。
ところが、中には、起業家として、投資会社を設立して、バンバン儲けようとする者がいれば、ちょっと地味というか、見知らぬ地を巡礼も兼ねて、外国人観光客目当てのサービス業のバイト(温泉旅館での住み込み的な労働)を、あるいは、都内の観光地でボランティア活動をしてといった具合の社会貢献に意欲的な人もいて、まあ、多士多彩という感じ。女性2名も来てくれて花を添えてくれました(こういう表現は昭和なんでしょう)が、彼女達は語学にも秀でていて、大学の講師や通訳などをして、自己実現に務めている、そんな感じ。仕事もしないで、悠々自適な生活をしている同期もいて、これは羨ましいといえば、羨ましい。

 私は人を見るのが好きな熊ですが、すこし変わった熊で、心の中を除いてみたい熊。どんな場所で、どのように、何をしているかも関心があるのですが、心の様子はどうしても顔の表情に表れます。悠々自適な同期や、会社を起ち上げた同期の顔はどこか清々しい。というか、若々しい。で、考えるのです。人はどうしたら若々しくいられるのかと。多分ですが、老いても若い人というのは、共通なものがあって、それがあると若い。その共通なるものとは何かと申しますと、それは「育てるモノ」がある人ということ。

 育てるというのは、成長を見守るということ。テークケアをするということ。手をつかって、目を配って、何かを育てるモノがある人が若い。モノとは商品もそうでしょう。家の鉢植えの花もそうでしょう。昔から、人の関心は、動物から植物、そして最後は石になると言いますが、石が駄目なのは、成長しないから。会社を企業した人は会社の成長に意を尽くす訳です。会社は幽霊ではありませんので、会社を育てるというのは、商品とそして人を育てることであります。

 ところがですね、これまでの役所人生の延長として再任用されて働く人というのは、いや、別に悪いことではありません、お金を稼ぐことは大事ですから。国家のために働くということですし、それは立派といえば立派。ただですね、役所時代に、社会貢献をしたとか、国家のために自分は頑張ったと思う人なら、その延長でもいいかもしれませんが、同じ組織の釜の飯を頂いて、位の下がった裃や、鎧兜をかぶり続けるということで、定年した意味がないということが一つ。もう一つは、そもそもですが、役所仕事は育てるというような意識では仕事は成り立たない。姿形の同じような、大根やキュウリ、あるいはトマトを作るのがお役所仕事で、育てるというのは、形が歪な、ジャガイモを作って、喜ぶような、我が子の成長を喜ぶような仕事を言うのですから。

 役所の仕事は、管理、それに尽きます。管理以外の仕事も多少はあるでしょうが、人的資源、あるいは、資金的資源の最適有効配分という、「管理」の仕事であって、そもそもが成長したとか、発展したというような、そんなモノ作りとは縁の遠い仕事。無味乾燥という言葉は酷ですが、基本はそうなんです。ですから、長く務めた公務員のお顔を御覧なさい。精気が全く感じられない。特に、これは確かロシアの文豪の小説にもありますが、下っ端公務意の末路は淋しいものです。現役時代に下っ端だった者が継続してやる仕事ではない、と私は断言できます。つまらないと思いますよ。

 ちょっと再任用組には厳しすぎるかもしれませんが、そうならないようにするには、ではどうするか。一つしか解決策はありません。自らの成長も含めて、一緒に働く同僚や若い後輩を育てることに意を尽くすことです。育てることを忘れた社会(組織)に未来はないでしょうな。今の経済にしても、政治にしても、こうした手間暇をかけて、人を育てるという姿勢が感じられない。あるのは、管理だけでしょう。AIにしても、同様で、対話型AIにしても、生成AIにしても、模倣的なコピーの増産は可能かもしれないけれども、彼らは手間暇をかけて、育てることは出来ないでしょう。

 退職して、畑仕事などをしている人は良いですな。自らが耕す場所がありますから。会社経営もしかりでしょう。耕す場所を持たない人は老けます。私ですか?田んぼや畑、あるいは山は秋田に帰ればありますが、今の住まいにはない。でも、一つあります 。そうゴルフ。ゴルフ場で、毎回耕しております、クラブを使って。

 今日のまとめです。今回同期の顔を見ながら思うのは、いやいやながら働いている人の顔は堅い、怖いということ。こんな怖い顔をしていたら、子供は泣いちゃうよと思う位に怖い、怖い。反対に、悠々自適の人は良いですなあ。お金が潤沢にあるとは思えないし、それなりの苦労を背負っているのでしょうが、それを人前では見せない。やはり、男はそうでないといけませんよね。やせ我慢というか、爪楊枝を歯にあてて、「武士は食わねど高楊枝」でないと。そして、定年退職後では退職後の生活を始めるのは遅いということを。少なくとも、自分が耕す畑がどんなものであるか、成長を見守ることができるものが物なのか、それとも人であるかぐらいは見当をつけておかないと、大変なことになるということも考えさせられた、同期の集まりでありました。

 いずれにしても、人の心は顔に出ます。顔といっても、動くのはせいぜい、眉毛と目と口。私は眉毛は殆どありませんが、目は口と同様に、真実を語ります。お金に夢中な人は目が怖い。育てることに夢中な人は、目が優しい。

 実は、今日書こうと思っていたのは、ドイツ語の「シャーデンフロイデ」についてのことでしたが、同期の顔ぶれや今の状況を知って、とてもとても「ざまあみろ」なんていえる心境になりませんでしたので、せめて、世界的に有名な「悪魔の辞書」にある「幸福」の定義をご紹介するに留めて、あとは後日ということで失礼いたします。


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