芭蕉が愛した山中温泉|鶴仙渓の自然と川床を味わう
橋桁から、カマキリが川に落ちた。
とたんに川魚が我先にとカマキリに群がってきた。獲物を、待ち構えていたのだ。
カマキリはもがいて逃れようとするが、抵抗むなしくやがて川底へと飲み込まれてしまった。ここでは、自然界の当たり前の営みが繰り返されていた。
*
ある年の夏、青春18きっぷを利用して、石川県加賀市・山中温泉を訪れた。温泉郷のすぐそばには、情緒ある街並みと、心を洗う自然がある。温泉街に沿うように流れる大聖寺川の渓谷は「鶴仙渓」と呼ばれ、それはそれは心の休まる静かな空間が広がっているのだ。かの松尾芭蕉も、奥の細道紀行で8泊9日間滞在した。
連日のことながら、もう夏に終わりはこないんじゃないかと思えるほどの、暑い一日だった。それが鶴仙渓に入った途端、ぐっと気温が下がったような気がした。木陰に囲まれた遊歩道にはそよ風が吹き、せせらぎと野鳥のさえずりが響きわたっている。
実際に、舗装路より気温が低かったのかもしれない。が、自然の情景が涼を感じさせたに違いない。石畳の遊歩道には苔が生え、道端のシダ類がみずみずしい。河原ではカワガラスが水浴びをしながら、上流へ向かって歩いていた。
鶴仙渓にはいくつかの橋がある。石造りの黒谷橋、赤くモダンなあやとり橋、総ひのき造りのこおろぎ橋。それぞれに趣があり、橋を巡ってみるのも楽しい。その橋の上からカマキリが落ちて、川魚の糧となったのである。
幼少期から自然に親しんできたが、このような瞬間を目撃したのは初めてだった。
しかし自然界では日常のこと。
渓にはただ、自然の理が存在するのみ。
上流から下流へ、とどまることなく流れてゆく。
*
鶴仙渓を訪れたなら、ぜひ楽しみたいのが川床だ。
鶴仙渓のちょうど真ん中、あやとり橋の近くにあるそれは、テーブル席とお座敷席がいくつかあり、赤い和傘がしつらえられた、こじんまりとした川床だ。お座敷席は川にすぐ手が届くぐらい低い場所にある。そこからの眺めは、川に浸っているかのような錯覚を起こさせた。
さっそくお茶を注文する。
キリリと冷えた、加賀棒茶だ。
加賀棒茶は、お茶の茎の部分を浅く均一に炒り上げたほうじ茶で、北陸の加賀地方を中心に親しまれている。程よく歩いた体に冷たいお茶はすっと染み込んだ。ほんのりと香ばしく、そして甘いすっきりとした味わいだ。
芭蕉も、このお茶を飲みながら句を読んだのだろうか。川床の先には、あゆの友釣りに勤しむ釣り人の姿が見えていた。
——夏だなぁ。
そこにあるのは自然の木陰と川のせせらぎ。
川沿いを吹く心地よい風と、よく冷えた加賀棒茶。
他には何も、いらなかった。