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家族からの学び。大人として、自分で決める。

最近、色々あって、
かなり気持ちが暴れた。

ここ数年、暴れることが多めだったので、
以外に冷静に、「あぁ、暴れとる!」くらいな感じなのが、
成長かな、とも思うけど、

和解した母と、結局ダメだった、
それを自分で決めて、
家族がいなくなって、孤独を感じた。

そんなことがあり、
心が暴れる君だった。

前の記事にも度々書いているけど、
父と母の行動で、
自分の妹は30年間苦しみ続け、
うつやパニック障害、自殺未遂もあって、
生きるために、と言って、
5年ほど前に家族と縁を切る、
そんな内容の手紙をよこしてきた。

妹曰く、自分は関係ないけど、
家族だから仕方なく、関係を切るそうだ。

自分としては、
何もしていないのに、
ある日突然、妹がいなくなってしまった。

自分は妹が大好きだった。
そして、父と母が原因で、
ある日その妹と会えなくなった。

実際の話、父と母は加害者で、
妹は被害者であり、
自分の視点で言うと、
妹を奪われた点で、自分も被害者だった。

自分は、妹が生きるために、と言った決断を大事にしたいと思った。
そこに至までに、カウンセリングに通ったり、
色々考えを巡らせたけど、
今も変わらずその気持ちを大事にしたいと思っている。

しかし、母は、
妹と離れたくなかった。

母とはそういうものよ、
そう母は言う。

自分は母としての気持ちは想像はできるけど、
実際にはわからない。
でも、妹からしてみたら、
生きるために縁を切ったのに、
延々と追いかけてくる母は、相当な恐怖なのではないだろうか。

妹のことを考えられない家族と、
いつもの通りに家族でいることは、自分にとってイメージが難しかった。

実際には家族だから、何かしなきゃ、
家族が壊れないように、会って何か話したい、
みたいな強い気持ちが生まれるのだけれど、

自分が妹を奪われて、悲しい気持ちになっているのに、
その状況を作った人のために、何かするのもおかしくて、
自分は、家族と距離をとった。

そうすると、
母は自分のことも追ってきた。

加害者が被害者を追いかけるのは、
被害者としては、本当にやめて欲しかった。

愛がある分、余計に怖かった。

その間に、父が認知症になり、
もともと、そういう傾向にはあったけど、
母を殴って病院送りにした。

母は身体的暴力を受けたとして、
国の保護下となり、シェルターに入って一年を過ごした。

そして、シェルターから出てきて、
母から連絡が来た。

自分は電話はブロックしていたし、
メールも返信していなかったけど、
父から暴力を受けた母に対しては、大変だったね、と言いたかったし、
その時点で、妹に対してどういう気持ちなのか、
聞いてみたかった。

自分は、家族というものを、
本当に失いたくなかった。

そんなに寂しいことはないからだ。

そして、母という存在は、
そこから自分は誕生したわけで、
その存在と縁を切ることは、
どこまでいっても、心苦しい事に変わりはない。

なので、連絡を取るか、取らないかで言えば、
ダメもとで、一回とってみよう、
そう思って、メールを送った。

大変だったね。
そして、妹に対しては今どう思っているのか、と。

そうしたら、
妹に対しては、本当に申し訳ない、と思っている。
自分も大変な経験をして、
娘の気持ちがわかったような気がする。
本当に申し訳ないことをした。

そう書いてあった。

自分は嬉しかった。

母に、ごめんなさい、という気持ちがあったら、
また一緒にいたい、という気持ちが生まれたのだ。

実際に日にちを決めて、会って、
色々な話をして、
別の日に食事をしたりした。

そして、3回目に会った時、
妹の話になった。

それまでは、
また家族でいられることで嬉しくて、
幸せな気持ちでいっぱいだったのに、
その日は、本当にモヤモヤした気持ちでいっぱいで家に帰った。

なぜなら、
今だに、妹に会おうと、
妹の義父に連絡をとって妹と会おうとし、
花を送ったり、
妹の旦那さんに連絡をとったりしていたのだ。

自分は、あまりびっくりもしなかった。
あぁ、そういう人だったな、と思って、
繰り返している自分に、がっかりした。
そして、もう本当にダメなんだな、と思った。

自分は、自分が家族と距離をとった時に、母が追いかけてきて、
怖かったこと、
妹もそれと同じことを感じているのかもしれない、ということ、
自分は妹の幸せを願う、それをしたいということ、

それらを伝えて、家を後にした。

そんな時、母は、いつも「ありがとう」という。
自分としては、訳がわからない。

自分は、いつもその「ありがとう」が嫌だった。

そこに個人的に違和感を感じていて、
いつも、お礼を言われて嬉しくないってどういうことだろう、
と疑問に思っていた。

冷静に考えてみれば、当たり前なのだ。

加害者が被害者に「ありがとう」と言うのがおかしい、と思っているからだ。
自分は「ごめんなさい」と言って欲しい。

でも、はっきり言って自分の行動がおかしいのだ。

加害者となんで被害者が一緒に居たがるのだろうか。
そして、別の被害者が嫌がることを、
今だにしている人から、一緒にいて「いてくれてありがとう」
と言われたら、なんだかコミュニケーションが頓珍漢で、
変な気持ちなる。

一緒にいる自分が悪いのだ。

でも、家族だから、
母だから、
そこなのだと思うし、
だからこそ、変な気持ち、もどかしい気持ちが強くなるのだ。

そして、自分は人に愛されたいと思う人間だ。
人に応えたいと思う人間だ。

そして、
妹の家族からの離脱、
父のDV、
そして実際に自分もその後に自殺をし、
自分を大事にしたいと、そう思うようになった。

それを、日々大事にしながら、
トライアンドエラーで生きている。

その時も、
母の「いてくれて、ありがとう」それに応えようとする自分がいた。

おかしな話だ。
自分は怒っているのだ。

怒っているのなら、
そういう顔をするとか、離れていくとか、
それ相応の行動をするはずなのに、
それとは逆の行動を自分はしている。

自分の問題なのだ。

母は、きっと心から「いてくれて、ありがとう」と思っているし、
そう思うから、そう言っているのだろう。
その意味で、母は別に悪くない。

自分は再び、家族から離れることを決めた。

あぁ罵倒されたり、さらを投げつけられても、一緒に父と居続けた母は、
こういうことだったのかな、と思う。

彼女は、離れられなかった。
居ることで父の役に、家族の役に立っていると思い、
自分を大事にできなかった。

でも、自分は、
経験を通して、
自分を大事にしたい、と思う。

自分は母に、ひどいことをされている、
そう言う気持ちでいる。

妹を奪われたのだ。

やめて、ということを、
自分はそういうものだから、と言ってやり続ける人なのだ。

じゃぁ、離れよう。

一緒に居なければならない、というわけではない。
もう、大人なのだから。

でも、やっぱり慣れなくて、
離れたら、心スッキリ、とはいかないのだ。
母だし、家族だし、
自分は別れが苦手だから。

でも、正しい。
自分を大事にする、
それのどこが悪いことだろうか?
そして、そうすることで、
他の人も大事にできるようになりたい。

自分で決めたのだ。
孤独がやってきて苦しい。

でも、ここから。

いつだってそうだったけど、
今日だってここから、
また小さな喜びを積み重ねて、
生きていきたい。

自分も相手も、
大丈夫な状態で。

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