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自己紹介

はじめまして。てぃらと申します。
記事をご覧いただきありがとうございます。

陸上競技一筋の脳筋アスリートから教育業界、IT業界と身を移し、現在は業務効率化を支援するITサービスの営業、マーケティングをしております。

今回は大きな挑戦を始める第一歩として、過去の棚卸しも含め、自分のストーリーを言語化して記事にすることを決めました。

スポーツに打ち込み続けた脳筋アスリートから、なぜIT業界への道を選択したのか。なぜ「コミュニティ」の立ち上げに挑戦しているのか。
これまでの経歴と想いを全て整理して文字に落とします。

まだまだ年も若く、実績もない。
何者でもないからこそ、自分の言葉で精一杯の想いを書きます。

「藤田 崇志」という人間のストーリーをご拝読いただき、
少しでも、私の経歴やメッセージに共感いただき、皆様の行動に影響を与えるきっかけになりましたら幸いです。

それではよろしくお願いいたします。

1.【幼少期~高校生】コンプレックスの中で見つけた陸上競技

1997年、京都府宇治市生まれ。
大学卒業まではずっと京都に住んでいたので、今もビジネスシーン以外ではしっかり関西弁を喋ります。

私の幼少期はというと、周りと比べて強い「劣等感」を持っていました。

運動神経はクラスでグンを抜いて悪く、特にドッジボールや野球など、メジャーな小学校でのスポーツは悲惨でした。
面白いことも言えず、空気も読める方ではなかったので、嫌がらせを受けていた影響もあり、あまり自己肯定感は低かったと思います。

しかし、中学に上がったとき、大きな転機が訪れます。

それは「陸上競技部」への入部でした。
元々は小学校の体育で唯一、中の上の成績を出せたという理由で入部を決めたのですが、練習の成果が数字として目に見えることにハマり、気付いたら狂ったように練習するようになります。

その練習の成果もあり、中学3年ではチームのエースとして駅伝に出場。
7番目でタスキを貰い、5番目でゴールすることができ、チームを府下大会へ導くという実績を上げることができました。(6番までが上の大会に進めるので、一躍ヒーローになれました)

この経験で完全に陸上競技の魅力に取り憑かれます。
「もっと高みへ行きたい」
そう思うようになりました。

そして高校進学後、さらに才能が開花。
高校2年時には学年別の大会で府内ベスト8に入るなど、
劇的にタイムと実績を出していきました。

この頃から一切勉強をしなくなり、
数学や英語など興味の沸かない分野は赤点を連発するようになります。
しかし何も気にせず、授業中はひたすらにどうすればタイムが伸ばせるのかばかり考えていました。

気付けば、
「自分の居場所はここ(陸上競技)なんだ!」
本気でそう思うようになっていました。

今思えば、「陸上競技」は何もなかった自分の、唯一の心の寄りどころのような存在だったのだと思います。

2.【高校生~大学2年】儚く散った実業団への夢

勉強を捨て、恋愛も捨て、遊びも捨て、全てを陸上競技に注いだ高校生活。
その甲斐あって私は第一志望であった関西トップの大学のスポーツ推薦枠を勝ち取ることができました。

高校生から少しずつプロへの道が開けつつあったタイミングで掴んだ最大のチャンスです。

正直「ウハウハ」でしたね。
まずは関西で名のある選手になり、大学駅伝で脚光を浴びる。そしていよいよ実現団の世界へ飛び込む。

夢は広がるばかりです。

しかし、大学の陸上競技部に所属後、
すぐに現実の洗礼を浴びることになります。

大学の練習に参加後、3日で足を故障しました。

私が進学した大学は日本一、練習量が多いと言われた大学。
月に1000キロ近くの走り込みを行います。
これまで甘い環境で体が仕上がっていなかった私には、完全にオーバーワークでした。

それから1年間、一切怪我が治る気配はなく、
治りかけたと思えば、また怪我するといった最悪のループに入りました。

そこにさらに追い打ちがかかります。
それはコーチからの「パワハラ」の部員からの「無視」でした。

当時、故障者は監督の指導から外れ、コーチに朝と晩に
報連相を行い、1日を振り返るというルールがありました。
しかし、何故か私だけ全て無視されるというイベントが発生します。

今思い返すと、自分にも甘さや悪い部分は少なからずあったと思います。
それでも365日毎日報告に行って、毎回全て無視されることを
繰り返すと、さすがに頭がおかしくなってきます。

そしてただでさえ、余裕のない環境。
部員はみんな、自分がターゲットにならないように注意を払います。

その結果、仲良かった同期や先輩がどんどん離れていき、
ついには一人になってしまいました。
全寮制だったため、挨拶もろくに返してくれない寮の中ははっきり言って
地獄でした。

コーチや部員の機嫌を伺うために走る、練習したら故障をする。
報告をしたくないから痛みを我慢して走る。

もはや高校の頃の輝きは完全に失いました。
監督には「才能がないから早いうちに辞めたほうがいい」と言われました。

それから1年間、自分の居場所を確保するために、そして走れるようになるために死ねほど頭で考えました。

そして気付きます。

まず「結果がすべて」であること。結果が出なければ、姿勢やプロセスが良くても何も評価されないこと。
そして、その結果を出すための「答え」はコーチにも周りでもなく
「自分」にしかないこと。

超音波治療・マッサージ・鍼治療・体幹トレーニング・ウエイトトレーニングなど、パフォーマンスを上げる手法は無数にあります。

しかし、これらを最適に自分の成果として落とし込むためには、
「自分」を知ることが必要不可欠であると気付きました。
言い換えると「軸」を持ち、要素を選択できる力です。

それに気付いた時から周りも少しづつ変化していきました。
認められなかった先輩や部員にご飯を誘ってもらえるようになり、少しずつ部内での居場所もできていきます。

そして走りも劇的に変化し、フォームも改善され、チームの上位に食い込む走りができたこともありました。大学2年の5月頃のことです。
ようやく1年間味わった苦労が報われ始めたと感じます。

「これからだ。」

大学に入ってようやく希望を持てるようになってきました。

しかし、身体は正直で大学2年の7月頃に再び故障します。
今度は「坐骨神経痛」という厄介な故障で、これまでの故障も含む慢性的な疲労から腰を始め、足や腕の感覚がなくなる病気でした。

ようやく結果が出てきたタイミングにも関わらず、再発した痛み。
めちゃくちゃ悔しかったですね。

そして再び故障者生活へ。

故障者は毎日30キロ以上歩き、基礎づくりに励むのですが、
腰を痛めた状態では全くの逆効果で、もはや完治は難しくなりました。

そして大学2年8月、夏合宿の後半に差し掛かった時、決意します。

「陸上競技を辞めよう」

糸がきれた瞬間の感覚はよく覚えており、場所も風景もまだ鮮明に頭に焼き付いています。

合宿終了後、すぐに監督に競技から身を引くことを報告します。
監督からは以前から「辞めたほうがいい」と遠回しに言い続けられてきましたが、その言葉がなければその時の決断はできなかったと思います。

本来部活を辞めれば大学も辞めなければならないところでしたが、私とコーチの関係やチーム内部が半崩壊気味だったことを考慮いただき、部員として籍を置いた状態で学生自治会(体育会本部)に出向し、学校に残るという選択肢を与えていただきました。

悪名高く、ロジック崩壊のめちゃくちゃな人でしたが、大学にスポーツ推薦で入学させていただいたこと、最後の決断を暖かく後押ししてくれたことを含めて、当時の監督には本当に感謝しています。

こうして9年間命をかけてきた「陸上競技」をようやく捨てることができ、
本当の意味で新しい第一歩を踏み出すことになりました。

3.【大学3年~大学4年】元脳筋アスリート、教師を目指す

大学の陸上部を去り、次の0からのステージへ。
最初に押し寄せた感情は「焦り」でした。

9年間陸上に注いできた分、遊びも恋愛も経験してこなかった人間です。
陸上を失った当時の自分には何も語れるものはありませんでした。

だからこそ残りの2年で陸上に変わる「何か」を見つけなければならない。
そしてその「何か」を見つけるにはチャレンジの場数が命だとなんとなく気付いていました。

そして私はすぐに3つの目標を掲げます。

① 残り2年で教員免許を取得する
② 学生自治会(体育会本部)で誰も成し遂げたことのないことをやる
③ 自分の力で高校時代の自己ベスト(5000m)を更新する

②③は語り始めると長くなるのでこの場では割愛します。

私が陸上を辞めて最初に思ったことは、
「陸上競技の楽しさを子供達に教えたい」
というシンプルな想いでした。
アスリートのセカンドキャリアあるあるだと思います。

そのためには教師を目指すことが手っ取り早い。

部活を引退してすぐに教職センターに行き履修手続きを行いました。
体育の教員免許は取れなかったので、
中学社会と高校地歴の免許獲得を目指します。

追加で取る必要のある単位は60単位。
4年かけて履修する内容を2年で取りきらなければならないため、
1単位でも落とせば致命的な状況でしたが、当時の私はすでに失うものが何もなかったので、気楽に挑戦できました。(今思えば最高の武器です)

そして、大学生らしくアルバイトも開始。
最初は単ハガキの仕分け等、単発のバイトを複数こなしましたが、せっかくなら教育に関わるバイトがしたいと思い、ひょんなことから塾講師のバイトに応募を始めました。

そして、1社目の講師選考試験へ参加。
結果は「無言お祈り」でした。

「うちはよっぽどでないと落とすことはないから安心して」
という試験監督の言葉を鵜呑みにし、完全になめて試験に臨みましたが、
そう甘いものではなかったようです。(当たり前ですが)

そして2社目の選考へ。

こちらは1週間後に面接官から連絡がありました。
ウキウキして電話に出ると、面接官担当の人から深刻な声で言われました。

「筆記テストの点が低すぎて採用に困ってます。」

ちなみに点数を聞くと英語が40点、数学が19点だったとのこと。
合格ラインが60点以上のため、到底合格ラインより下の成績です。

正直自分がここまでバカだとは思いませんでした。
(まあ普通に考えて、勉強から逃げた奴が塾講師なんてやるべきじゃないですよね)

しかし、面接官と教室長の御好意もあり、なんとか再々試験(まじで迷惑やった思います)で合格し、塾講師のアルバイトを始めることができました。

私が最初に担当した教科は中2数学で、生徒は2年生に上がりたての子でした。前回の期末テストの点数は30点。
完全に学校授業に置いていかれてしまったタイプの子です。

しかし、その子はの気持ちはめちゃくちゃわかりました。
自分も当時は勉強ができる方ではなかったので、その子の本質的な課題や原因は何か、真剣に寄り添って考えたいと思いました。

その塾では教育コーチングを取り入れていたので、学ばせていただきながら、生徒と共に試行錯誤を繰り返しました。

そしてその子の点数は3ヶ月で70点まで伸びます。
そして3年生に上がった頃にはアベレージ80点を取るまでに。

一番嬉しかったのは当初一番苦手だった関数(y=axてきなやつ)の分野で85点を取った時の反応です。

「まだまだいけた。次はもっと頑張りたい」

という言葉。数学が大嫌いだった時では考えられない向上心溢れる言葉でした。まじで大きくなったなと。
その子は第一志望に推薦で合格を貰い、今もやりたいことの実現に向けて前を向いて走っていると思います。

他にもPJリーダーとしてゼロからのプロジェクト企画や教室運営に携わる経験をさせていただき、大学時代の塾講師がなければ今の自分はないと思うほどに貴重な体験ができました。

当時頭の悪すぎた私を採用してくれた、教室長のご判断には本当に感謝してもしきれません。
塾のアルバイトでは生徒に個別に寄り添う教育やリーダーとして周囲を巻き込む難しさなど、たくさんのことを学ばせていただきました。

そんな塾講師としての挑戦を重ね、いよいよ大学4年生になり教育実習の時期へ突入します。

しかし、実習先に待っていたのは想像以上の大きなギャップでした。
簡単に3つにまとめます。

まず1つ目に集団授業であること。
まあこれは当たり前かもしれませんが、ただ教科書に書かれていることを板書化し、大人数の子供たちに機械的に発信する形式に違和感を持ちました。

塾では基本的に個別指導なので、その子にあったカリキュラムを考えて授業を組んでいたので、なおさら
「これが本質的に子供の為になる教育方法なのか?」
と強い疑問を持つようになります。

そして2つ目はあまりに現場のIT化が進んでいないことです。
先生は毎授業ごとに「学習指導案」という授業カリキュラムを作成する必要があるのですが、これが全て紙。そして印刷し、全教師に配布。(その後だいたい捨てられます)

学校教員はブラックだと言われていますが、その理由は効率的な仕事ができる仕組み化がされていない点がほとんどだと思います。

最後に3つ目、担当クラスをもたせてもらい、初めて教団に立った瞬間に思ったことです。

「自分が果たして目の前の子供達を未来へ導く器があるのか」

9年間陸上という夢を追いかけ努力してきました。
塾講師として2年間学び、中学数学なら教えられるようになりました。

けど、たったそれだけです。

自分はまだ社会のことをこれっぽっちも知らない。
目の前の子供達のほとんどが会社員となり、社会に出ていくことになる。
それなのに社会を知らない奴がいったい何を教えられるんだろうか。

そう思った時、私はファースキャリアで「教員」になるという選択は消えました。(この頃には陸上に固執した考えも消えていました)

今の自分よりもっともっと大きくなって、高みを目指そう。
教える側に戻るのは、「人を導ける自分」になってからでしかない。

4.【大学4年~現在】「社会」を知るべくIT業界へ

大学4年生となり、本格的な就活が始まりました。

教育実習が終わって初めて企業入社の意思が固まったので、6月中旬という少しスタートとしては出遅れた形になります。

企業選びの「軸」としては、学校教育に外部から関わることができる企業、もしくはなんらかの形で教育に変革を与えられる企業に絞りました。

しかし某大手通信教育、人材育成、学習塾、色々受けてみましたが、ことごとく全て落とされました。(多分変革思考が合わなかったのか、、)

そんな中、唯一内定を頂いた企業が北陸で有名な某東証一部の総合商社のIT事業部の営業職でした。

最初は「はじまりを創る会社」というキャッチフレーズに引かれて選考に進んでいましたが、選考に進むにつれて「商社」「IT」という未知の分野に惹かれていきます。

特に惹かれたのは自社で開発しているという「POWER EGG」というソフトウェア。

「デジタルトランスフォーメーション」
「ペーパーレス」
「グループウェア」
「CRM」
「ワークフロー」

よくわからない横文字がたくさん書かれてありましたが、導入実績を見てみると、某地方銀行の経費を96%削減した実績があるとのこと。
詳しいことはよくわからなかったですが、教育現場の非効率もこのシステムなら変えることができるのではないかと思いました。

そして2019年4月に某商社のIT事業部、俗に言うSlerに入社しました。
4月から10月までは石川県の本社でITの基礎知識について学び、その後自ら「POWER EGG」をつくっている子会社に出向し、東京に移動しました。

子会社に出向してからはまだ半年と少ししか経っていませんが、親会社での研修も含め非常にたくさんの経験をさせていただきました。

ITの仕組みや歴史、プログラミング、営業、マーケティング。
今まで自分が学んだことも触れたこともない分野です。

特に、子会社出向後は新規の営業として年商1000億を超える企業の役員クラスの方と商談する機会をいただき、1年や2年では味わえない経験をすることができました。

しかし、自分の使命は製造業や金融機関をITで支えることではなく、新しい教育の仕組みを生み出すこと。

体は正直なもので、10月に東京に移動してきた瞬間に気付いたら「yenta」というマッチングアプリを使って仲間を集め、何かしらの「教育事業」を立ち上げようと動き始めていました。

5.【「大人のオンライン学校」立ち上げへ】 これから目指す姿

そして今日8月1日。
「大人のオンライン学校」ビジョンキャンパスの事業を開始します。

本当にありがたいことに、自分のビジョンに賛同してくれた人が10人、立ち上げメンバーとして参画してくれました。

私達が提供する価値はシンプルで、挑戦できない人やくすぶっている人に対して「行動のきっかけ」「挑戦の居場所」「実現の導線」を提供することです。

正直に言うと私は日本人の9割以上の人がクソ野郎だと思ってます。

自分の「軸」もろくに持たず人の夢を馬鹿にしたり、ちょっと都合の悪いことがあれば他責にする。そんでもって責任転嫁だけは器用にできる。

日本の教育制度がそうさせてしまっているのが現状ですが、時代の急速な変化に気づかないフリをする管理職、自分の年収が減っているにも関わらず、家族を持っているにも関わらず目をそむけるサラリーマン。
SNSで綺麗なことばかり呟いて満足している人。

ただ、そんな中でも変わりたいと想っている人は一定数いるはず。
特に地方は保守的な文化が根付いてる場所(京都も含め)が多く、意識の高い人や尖った人が埋まる環境になってしまっていると感じます。
大学は未だに銀行と公務員が安泰だとか言ってます。

そんな人達にオンライン上のマス向け教育サービスを提供することで、少しでも挑戦できる機会を提供できれば嬉しい。

先程、日本の9割はクソだと言いましたが、自分もまだまだクソの領域の人間だと思っています。
最近会う層が少しずつ変わってきましたが、偉大な経営者の先輩と比べて自分には圧倒的に「実力」「言葉」も足りない。

まだまだ自分のビジョンは自分のエゴでしかなかったのだと痛感させられています。

だからこそ、これからも器の大きい人であれるよう、ビジョンキャンパスの事業はもちろん、人として魅力を磨き続けいきたいと思います。

起業は登記して始まるものだと思っていましたが、今の時代は5万もあれば代表取締役社長になれます。

私にとっての起業は「今日」です。
志のため、大義のため、そしてついてきてくれたメンバーに還元するために、ビジョンキャンパスを「事業」としてグロースさせます。

まだまだ未熟な自分ではありますが、
今後とも皆様どうぞ宜しくお願いいたします。

最後まで記事をご覧いただきありがとうございました。

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#ビジョンキャンパス開校式 #2020年8月1日


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