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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業

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●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれますが、そのためには人生行路の細部の諸事…
中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいた…
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2021年8月の記事一覧

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高瀬正仁
2年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (140)うつせ貝

『しづかな流』は日記の形のエッセイ集ですが、日々の記録と随想に混じって歌と詩が随所に散り…

高瀬正仁
2年前
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中勘助先生関連画像紹介

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高瀬正仁
2年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (141)母を思う

 中先生の母は嘉永2年(1849年)1月25日のお生れですから、昭和5年8月の時点で満81歳、数え年…

高瀬正仁
2年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (142) 山田さんを思う

『しづかな流』は499頁に及ぶ著作ですが、全体を通じて一箇所だけ山田さんが回想される場面が…

高瀬正仁
2年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (143) 平塚から東京へ

『しづかな流』の時代は昭和7年までで終りました。岩波書店の雑誌『思想』に「しづかな流」と…

高瀬正仁
2年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (144) 母の死を看取る

 中島さんが赤坂の中家に到着したのは母が亡くなる二週間ほど前とのことですから9月の末のころと思われます。中家には女中さんのほかに看護婦さんも常駐していたようで、皆で交代して母を見守りつづけていました。ある晩、重態のままどうにか一夜が明けて朝になり、茶の間から病室に向い、障子をあけると中島さんが坐っていました。中先生は「おお」というようなことを言って何か挨拶をしました。中島さんは少し前に母のために温かそうなちゃんちゃんこを自分で編んで送ってくれましたので、そのお礼を言おうと思い

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (145) 相鴨報告

 末子さんの肉声は中先生の小宮豊隆宛書簡の中にわずかに響いています。昭和12年1月7日付の手…

高瀬正仁
2年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (146)相鴨口授

 昭和12年5月10日付の小宮さん宛の手紙で、中先生は文化というものに言及し、「文化とかなん…

高瀬正仁
2年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (147)氷を割る

 中先生のエッセイに「氷を割る」という看病日誌があり、昭和15年5月31日から7月1日まで、末…

高瀬正仁
2年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (148) 昭和17年4月3日(…

 末子さんの没後、中先生は『蜜蜂』という末子さんを追悼する著作を出しました。この著作に書…

高瀬正仁
2年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (149) 昭和17年4月3日(…

 中先生が末子さんに向って「息ができない?息ができない?」と問いかけても返事がありません…

高瀬正仁
2年前
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中先生関連画像紹介

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高瀬正仁
2年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (150)詩篇より

次に引く詩は『蜜蜂』の4月19日付の記事の冒頭に書かれています。  雨も悲し  風も悲し  照る日もまた悲しかりけり  四十年  嵯峨たる行路  われを守り  われを導き  沮喪する我を励まし  くづをるる我を起たせ  狂気より癒やし  死より救ひ  友となり  母となり  手を携へて歩み来し人  たぐひなき善良柔和の人は  ゆきて帰らず旅立ちたれば  夜も悲し  昼も悲し  朝ゆふもまた悲しかりけり