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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業

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●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれますが、そのためには人生行路の細部の諸事…
中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいた…
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2021年3月の記事一覧

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (4) 伯母さんの消息

 中先生が勘助と名づけられたのは父の幼名勘次郎から一字をとったのであろうと思われます。 …

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (5) 小日向水道町九十二…

 明治22年7月、中先生が4歳の年の夏に中家は山の手に転居しました。次に引くのはこの時期の転…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (6) 黒田小学校

小日向水道町に移ってから年が明けてまもないころ、明治24年1月11日の夜、祖母のみきが亡くな…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (7) 独逸学協会学校

 中先生と兄金一は仲の悪い兄弟でした。少年の日の中先生と14歳年長の兄の消息はさまざまな衣…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (8) 中金一の医学修業

 中金一が入学した時期の一高は三部制で、第一部、第二部、第三部に分けられていました。一高…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (9) 星を見る少年

 明治34年7月に中金一が東京帝大の卒業証書授与式に臨んだころ、中先生は数えて17歳で、府立…

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詩篇「いさき」

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (10) 関口の大洗堰の別…

 兄に連れられてある海岸へ連れていかれたこともありました。そのおりの情景は「つむじまがり…

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『小国民』第六年、第四号

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (11) ドイツ留学

 医科大学を卒業して青山内科の助手になった金一はまもなく洋行することになり、文部省から「…

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「つむじまがり」第1回

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (12) 山田又吉との別れ

 東京朝日新聞に「銀の匙」が掲載されたときの状況は既述のとおりで、夏目漱石先生の推挽をえ…

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中勘助先生の詩篇「魂祭」

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (13) 巌頭之感

 山田さんの没後、遺稿集が編まれ、『山田又吉遺稿』という書名が附されて没後3年目の大正5年3月に岩波書店から刊行されました。編纂者は中先生と安倍能成先生です。岩波書店の創業は山田さんの死と「銀の匙」の連載開始と同じ大正2年の夏8月5日と記録されていますから、山田さんの遺稿集の刊行は創業3年目というほとんど草創期のことでした。『山田又吉遺稿』は大きく二つの部分に区分けされています。前半は文科大学の卒業論文で、その題目は「エックハルト研究」です。文科大学というのはこの時期の東京帝